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zoom RSS 古代史探偵A・厩戸皇子の春(4月16日 晴れ時々曇り 14℃)

<<   作成日時 : 2018/04/17 02:21   >>

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週の始めは穏やかな青空。


但し朝までは強い風が残って、多少埃っぽくあった。

日中は風はだんだん収まり、気温は平年並みに。

予報によれば、今度の週末は暖かい高気圧に覆われ、初夏の陽気になると言う。

一週間先の事なので断言は出来ないが、日曜日の22日など仙台の予想最高気温は24℃となっており、今年一番の暑さになると言う。

東京など関東以西では30℃近くまで上がる所もありそうだが、高気圧は移動性で、次の月曜日の予想最高気温は、平年並みの16℃。

22日は市内中心部で、平昌オリンピック金メダリスト、羽生結弦選手の「凱旋パレード」が予定されている。

天気には恵まれそうだが、同時に熱中症注意の言葉も飛び出すかも知れない。

だがあくまで「一週間後の予想」であって、どうなるかはわからない。

少なくとも気まぐれの暑さだから、間違っても春物のしまい込まないように。

だいたい春先の暖かさ、高温はロクなものじゃない。

喜ばせておいて、後から…よくあるパターン。

雨が多く肌寒い日々が、その後続く可能性だって充分にある。

私はまだ厚手の上着を手放せずにいるが、夜はこれで充分な寒さ。

服装に最も悩ましい時期と言える。

新年度、という言葉も落ち着き、関係ある人もそろそろペースを掴む時期かと思う。

街は、どこか落ち着かない新年度の空気が消えつつあるように感じる。

月曜日と言う事もあって、夜の引けは早く、どこも空いていた。

帰りのバスなど、始発の時点で乗客はたった6人。

日曜の終バスより少なく、こんなに空いている平日のバスは初めてだ。

一瞬世間で何かあったのかな、と不安になるほどだ。

月曜日だからだろうが、それにしても・・である。

お店関係は特別空いていると言う感じはなかったが。

気づけば4月も後半で、なんという事かGWがちらほら顔を出し始める時だ。

全く関係ない、と言う人もいるだろうが、そこは交替で休むとかあるだろうから、そういう話が今週あたりから出て来てもおかしくはない。

何しろ5月1・2日さえ何とかすれば、9日間の連休になるのだから、人の流れは今後1カ月変ってくるだろう。

仕事の人は前後に休むだろうから、GWが終わってから・・と言う人もいるはずである。

気の早い・・と思うが、GWまで2週間ないのですよ・・・?


元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

今日は少し風が強かったですが、大丈夫でしたか?

肌寒さと初夏の暑さが同居しそうな週です。

ひょっとしたら、週末の君は「半袖デビュー」するかも知れませんね。

でもいつも言う通り、それは上着をちょっと脱いでの事にしておいた方が良いでしょう。

体は正直、お互い若くないですし(笑)。

あくまで予想なので確証はありませんが、体調管理には注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


生ける代に 恋とふものを 相見ねば 恋のうちにも 吾ぞ苦しき(万葉集巻十二 2930 正に心緒を述ぶ)



☆今日のバス

2463号車 14年式三菱ふそうニューエアロスター(MP38FK) 富谷営業所

420号車 13年式三菱ふそうニューエアロスター(MP35FM) 泉営業所





◎古代史探偵A(厩戸皇子の春)



厩戸皇子は622年2月22日、49歳と言う若さで亡くなった。この日付は「旧暦」で、現在の新暦に直すと4月8日頃である。

日本書紀によれば、皇子の実母・穴穂部間人皇女が疫病に罹り、621年12月に逝去したと見える。

当時間人皇女は、厩戸皇子が居住する「斑鳩宮」から東に約500メートルの「中宮」にいたと思われ、その後皇女を弔うために「中宮寺」が建立された。

「上宮聖徳法王帝説」では、皇子らの逝去日に食い違いがあるが、日本書紀も含めて後世の文献であるため、混乱が生じている。

しかし法隆寺本尊の「釈迦三尊像」にある光背銘文には、622年の記述が見られる事から、日本書紀の記述が正しいと思われる。

間人皇女が亡くなったのは、新暦だと2月の事である。

厩戸皇子は執務の間を縫って、母の見舞いを欠かさなかったが、年老いた母は闘病の果てに亡くなった。

間人皇女の生年月日は不明なので、享年も確定出来ない。

だが用明天皇の后として、第一子が厩戸皇子だったから、若く見積もっても60代後半以降だっただろう。

当時としては比較的長生きであり、罹患は偶発的なものだったと思う。

ところが間人皇女が亡くなった途端、今度は厩戸皇子本人が病に倒れ、病床に伏せる事になる。

傍らには妃の一人、膳大郎女が皇子の介護に尽くし、皇子は一時的に回復傾向を見せた。

しかし皮肉にも、膳大郎女が倒れてしまい、僅か一週間後急逝してしまう。

更に翌日厩戸皇子も後を追うかのように、息を引き取った。

何とも悲劇的な三人の死は、例え運命だったとしても偶発的過ぎである。

三人の死は世の中に衝撃を与え、国民は大いに悲しみ、泣き喚き、「太陽が消えたように」暗い雰囲気に包まれたと言う。

それだけ厩戸皇子は、国民に愛され親しまれた人だったと言う事を、史料は今に伝えている。

立て続けに亡くなったと言う事は、明らかに伝染性の感染症が原因だったとわかる。

一般的には「瘡」と呼ばれる疫病が、古代日本では何度か流行し、奈良時代の大流行では、数万人が罹患もしくは死亡した。

平城宮の中でも流行し、権勢を奮いつつあった藤原不比等の子「藤原四兄弟」が全員罹患し亡くなったのは、有名な話だ。

「瘡」とは天然痘の事だが、厩戸皇子一家もこの疫病に罹患した、と言う見解が一般的である。

しかし史料には、この時「瘡」が流行したと言う、確実な記述は見当たらない。

奈良時代のそれは、発端が遣唐使である事がわかっている。

帰国船の中で次々発病し、遺体を海に捨てたと言う記事があるが、帰国した人々にも発病しない保菌者がいた。

帰国船は筑紫に到着したが、直後から同地は瘡が拡大し、約半年後畿内に拡大したと考えられている。

厩戸皇子の時代も、遣隋使を派遣しており、そこから疫病がもたらされた可能性は考えられるが、615年に帰国船があるだけで、皇子の死去の時期とは無関係と見る。

最も高句麗や新羅からしょっちゅう人がやって来ているので、それが原因とも言えなくもないが、それなら記録が残るだろうと思われる。

当時感染症の理屈は分かっていないはずだが、病気が伝染することは分かっていたようで、奈良時代の大流行も遣唐使から移っていたような気実になっている。

ただ「瘡」と書かれてあってイコール天然痘、と考えるのはどうかと思う。

これは発疹が出来て、さらに化膿する症状から呼ばれたものと見られるが、発疹を伴う感染症は他にもある。

「はしか」などがその典型であり、必ずしも天然痘とは言い切れない。

また感染性の風、すなわち「インフルエンザ」の可能性の方が、私は大きいと思っている。

三人の様子を見ると、間人皇女は罹患して暫くしてから死去したようにも見え、逆に厩戸皇子と膳大郎女は短い期間でなくなったようにも見える。

風邪であれば、高齢者より若い人の方が自覚症状は軽く感じることもあると思われ、無理も効く。

インフルエンザであれば、肺炎などを併発し、急に重篤・・と言うのは現在でも良く聞く話だ。

時期的に見ても、インフルエンザの様な感染性の風邪が原因ではないだろうか、と思う。

三人が立て続けに死去したことは「不自然」として、暗殺など陰謀説を唱える人もいるが、当時の状況から見てその理由は見当たらない。

厩戸皇子は「皇太子」の立場で、推古天皇の後継者に指名されていたが、皇位を争う程の相手はいない。

加えて大臣・蘇我馬子が権力を掌握しており、天皇・厩戸皇子・馬子の3巨頭制は揺るぎないものであった。

また厩戸皇子が深く仏教に帰依していたことから、後世「聖徳太子伝説」が生まれ、皇子は自らの死を予測していた・・と言う話がある。

そして死の直前、親しい者を集めて「最後の宴」を催し、別れを告げると、膳大郎女に「今夜遷化する。お前も一緒に来なさい。」と言って、寝床に入ると、翌朝二人は亡くなっていたと言う。

どこかで聞いたような話・・。と思うだろう。

イエス・キリストの「最後の晩餐」であり、最後はまるで夫婦心中だ。

もちろんこれは作り話であり、皇子を「仏」として伝説化するため美談である。

だがこうした美談が出来るほど、厩戸皇子は仏教を篤く信仰していた裏付けであろう。

画像
     ↑厩戸皇子生誕地と言われる橘寺(奈良県明日香村、筆者撮影)


皇子は幼少のときから仏教に関心を持ち、日本の未来に必要なのは仏国土であると言う結論に達していた。

日本への仏教伝来は538年ごろと言われるが、これは皇室に「紹介」された事であって、仏教自体は既に日本にもたらせられていたはずである。

日本では4世紀ごろから、戦乱続く朝鮮半島を中心に、大陸から移民が多くやって来た。

彼らの中には仏教信者はもちろん、僧も含まれていたのは充分考えられる。

一般に広まらなかったのは「外国の宗教」であり、それを広めるのが憚られたからだ。

日本に移住して来た人々は、同族のコミュニティを作るより「日本人」として生きて行くことを望んだ。

まだ文化が遅れていた日本に、自分達が持っている知識や技術を惜しみなく伝えたのは、日本の未来を思う心であっただろう。

だからこそ「外国」を意識させる仏教は、大きく広めなかったのである。

しかし日本人は外国の文化や思想を、そのまま型に嵌めるのではなく、土着出来るように変えて行くという知恵を持っていた。

厩戸皇子こそ、その第一人者だったのではないか。

彼は仏教の真髄・哲学を学び、高句麗僧・恵慈に個人的に師事した。

そして「三経義疏」と呼ばれる、我が国初の仏教経典の「解説」を著す。

このうち現存しているのは、宮内庁の「御物」になっている「法華経義疏」である。

皇子は606年(推古14年)、法華経・勝鬘経・惟摩経を講義したと伝わる。

そのうち勝曼経と惟摩経に関しては橘寺で、法華経は斑鳩・岡本宮で講義したと伝えられる。

岡本宮は現在の「法起寺」の場所と思われ、7世紀前半の建物跡が検出されている。

その後勝鬘経が611年、惟摩経は613年、法華経は615年にそれぞれ「義疏」として著された。

前者二つは後世の写本が残るのみだが、御物となった「法華経義疏」は厩戸皇子直筆の物である。

長年真贋が問われてきたが、紙の質が飛鳥時代の物であること、途中に書き直しや訂正の跡が見られる事、それらも本文と同じ筆跡であることから、ほぼ「本物」であり、厩戸皇子の直筆で間違いないと思われる。

日本ではもちろん「最古」の肉筆書物・文献である。

厩戸皇子は仏教の教えを、後世に伝え残そうとしたのであった。

理想と言えばそうなのだろうが、人の命は平等である。

身分など、人間が勝手に作ったもので、例え天皇であろうといつかは死を迎えるし、どんな武人であっても急所を突かれればやはり死に至る。

数十年と言う、短い寿命の中で人々が幸せに生きるとはどういう事なのか・・・皇子は貪るように仏教を学んだ。

私達が平和に、幸せな人生を送る根本は「国」すなわち生きている場所である。

それは共有財産であり、「平等」でなければならない。

仏法では根本的な「平等」を解く。

いつしか人は「欲求」を中心に考え、自分の幸せだけを考えるようになった。

かつて釈尊が最初に疑問を抱いたのは、生まれて初めて「外」の世界を見たからだ。

王族の子として生まれ、何一つ不自由ない生活をしてきた釈尊は、言わば「籠の中の鳥」であった。

しかし外の世界は金持ちと貧困、憎しみが渦巻く阿鼻叫喚の世界であった。

そこにいる者は、化け物でも何でもない釈尊と同じ「人間」であった。

何故人は、こうも違うのか・・・。

そうして釈尊は王室の生活を捨て、下俗したのである。

厩戸皇子は自ら釈尊の人生をだぶらせたに違いない。

天皇の子であり、権力者蘇我氏の血を引く皇子は、幼少のころから何不自由ない生活をしてきた。

同時に無意味な殺生を伴う権力抗争、それに不本意に振り回される一般国民…いったいこの世界はどこに向かいたいのだ・・・。

今の日本も、同じような情勢ではないか。

誰もが「保身」に走り、それを言いわけして正当化する。

生活に困っている人、悩んでいる人、病気に苦しむ人を、口先だけ擁護しつつ、実際に助けようとしない。

そうした人が犠牲になると、今度は「国」や「行政」のせいにする。

時には警察までも批難し、責任を押し付ける。

国民一人一人が、「お互いに」幸せにならなければ、どうして国が平和だと言えようか。

「お互い様」と言う言葉を、今の日本人は忘れつつある事に「恥を知れ!」と言いたい。

国がいくら頑張ったって、国民が「協力」しなければ改革など進む訳があるまい。

最近何とか学園問題や、財務省の問題で国会は紛糾している。

安倍首相の支持率は、就任以来最低を記録したというが、だからなんだ?と言いたい。

もちろん権力を使った「ずる」は許すべきではないし、直ちに是正すべきだし、遣った当人は責任を取るべきだろう。

だが国会と言う場において「何と応えたのか?」「これは言葉遊びですか?」とか、真実を突き詰めるとか以前の、実にくだらないバカバカしいことだ。

国民が良く考えず「許せない」「辞任しろ」などと騒ぐから、野党も騒がざるを得なくなる。

仮に真実が解明されて、国民には何が残る?

政治の不信感?ならば不信になるような政治家を選んだ「有権者」の責任はどうなる?

確かに官庁のやり方は間違っているし、糺す必要がある。

それこそ政治家・国の「義務」なのだから、国民は逆にそれをしっかりしてもらうように良い意味で〔監視〕するのが義務ではないか。

この国は我々が死んだ後も、恐らくは高い確率で存続するだろう。

未来の子孫が不幸にならないよう、今の日本を本当の意味で〔幸せ〕にして行くことが国民の責任なのに、だれもそれをやろうとしない。

「人ごと」で片づけようとCいている事が、どんなに愚かな事か子供でも分かるはずなのに、考える事すら放棄してしまっている。

自分だけお金を持って、好きな事が出来れば良い・・・ならばあなた以外全ての人々がホームレスで飢えていても、それが良いと言いきれるだろうか。

あなたは大金持ちでも、家から一歩も出ることはできない。

一歩外に出れば飢えた人々があなたに群がり、いやそれだけならまだしも、あなたを怨んで即座に殺すかも知れない。

家にいても、いつ誰が侵入してくるか不安におびえて暮らす事が幸せと言えるだろうか。

命の危険を感じることこそが不幸の極みであろう。

今の日本は、厩戸皇子が憂慮した当時の日本と何ら変わりない。

飛鳥時代、国民はある意味「人間扱い」されていなかった。

世の中の富と権力は豪族・皇族と言った身分のある者だけが保有し、国民はそれを「支える」だけの存在だった。

日本に奴隷制度は存在しなかったが、国民は一部の身分者のために働くのだ。

農民は自分達が食べる分以上に、領主たる豪族や皇族の分も作らなければならない。

そして戦となれば、働き手の男子は徴用される。

国のため、とは言え、戦をすれば国のメンツは立つものの、戦後処理は手ひどいものだった。

働き手を奪われた農民・漁民は、例年通りの収穫が出来ず、上納すれば自分達が飢えてしまう。

戦に駆り出されれば、年単位帰って来れず、最悪戦死する事もある。

厩戸皇子は国政に関わり、こうした矛盾に大いに悩んだ。

皇子はめまぐるしく変化する国際情勢に、日本を「主権国家」とすることで外交を樹立させ、国同士の戦争を避けようと考えた。

大きなジレンマであった。

今も昔も政治は綺麗事・理想だけではやれるものではなく、時には「血で手を汚す」ことも強いられた。

人として大きな罪を被ることも厭わない、決死の覚悟が必要であった。

元に叔母である推古天皇、大叔父の馬子でさえ安定した政権を擁立させるまで、血縁者をも抹殺して来た。

ある意味人から恐れられ、憎まれるのは覚悟の上にあったのである。

厩戸皇子は10代と言う若さにして、醜い争いの陣頭に立っていた。

物部との戦いにおいて、罪なき兵士が死んでいくのを見なければならなかった。

そうした犠牲の元に、国が成り立った。

皇子はせめて、今後の日本に二度と争い・苦しみのない文字通り平和な国土を作る事が、死んでいった者たちへの弔いだと考えたのである。

その為には一人一人の考えが、一致しなければならない。

自分が幸せな一生を送るためには、世界が幸せでなければならない。

祈るだけでなく、自らそれの行動を起こさなければならない・・・。

仏教の思想に間違いはなかったと確信した皇子は、難解すぎる経典を翻訳し、わかりやすく講義もした。

厩戸皇子は我が国初めての「翻訳家」であり、「思想家」であり、「教授」であった、と私は考える。

本人も良く分かっていたのだろう。

生身の体は、意思とは裏腹にある。

まだまだやるべきことはあって、将来天皇に即位したならば仏教を「国教」とし、正に理想の「仏国土」を実現しようとしていたに違いない。

だがそれは適うことなく「定命」を迎えたのであった。

しかし皇子の理想は、やがて「聖徳太子伝説」として後世に語り継がれることになる。

それを「作り話」「偉人伝」と受け取るのは簡単だが、なぜ伝説化したかを考えたい。

厩戸皇子が言わんとしていた事を、伝えようとしたのが伝説ではないかと思うのだ。

622年の4月、斑鳩の春はどんなだっただろうか。

恐らく春の花、ヤマザクラ・ヤマブキ・菜の花・コブシ・モモが鮮やかに咲き誇っていただろう。

それは厩戸皇子がと妃、皇太后の霊を天上に導くものだったのだろうか。

死を悼む人々は、美しい春の花をどう見たのだろうか。

皮肉で憎いと思ったか、皇子の御霊が咲かせたと思っただろうか。

今は皇子の死後、1,396回目の春である。

自然は恐らくは、変わらないであろうが、人の心はどう変わったのだろう。

本質は変わっていない、と信じたい。

厩戸皇子は遠い未来の子孫、つまり我々にこの国を託した。

だからこそこの国は他国に蹂躙されることもなく、度重なる天変地異を潜り抜け、残って来た。

それは皇子がこれだ、と確信した仏教思想がどこかしら日本人が受け継ぎ貫いてきたからに他ならないのである。

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