CRECHANのブログ 「風の道」

アクセスカウンタ

zoom RSS 飛行機ネタ・現代のシュトルモヴィークSU-25(6月11日 雨 18℃)

<<   作成日時 : 2018/06/12 02:11   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

今日も朝から雨。しかも一日中降り続いた。

雨自体は霧雨が主体だったが、時折ザッと強まる事も。

太平洋上を進む台風5号は、直接影響する事はなかったが、梅雨前線を刺激し、八丈島や小笠原諸島では6月としては記録的な大雨になった。

また関東でも100ミリ以上の大雨になった。

仙台は雨による影響はなかったものの、気温は低く、シトシト雨が終日続いた。

こうなるとわかっていても、気分は優れないものだ。

先週の暑さのこもり熱が冷めなかった我が家も、ようやく涼しくなったのは良かったが、昨夜は肩・首・背中にかけての痛みが再発し、殆ど眠れなかった。

鎮痛剤を飲んだが、タイミングが良くなかったようで、効きが遅く、湿布を何度か張り替えてようやく眠れた。

ナーバスと言われればそれまでだが、急な気温低下と雨が影響していると思う。

しかも起きた姿勢だと痛みが消え、横になるとジクジク痛み始めるから始末します悪い。

恐らくは筋肉の筋を傷めていて、横になると負担がかかって痛むのだろうが、久し振りに苦しい時間だった。

病院にかかっても、筋肉痛で済ませられておしまい。自分では神経痛が加味されているような気がするのだが、病院ではせいぜい温熱器を当てられ、湿布と鎮痛剤を処方されて終わり。

もう20年以上苦しめられているのだが、一時整骨院に通って楽になった事もある。

だが今整骨院に行く経済的余裕はないから、経験による自己療法しかない。

雨が降ると筋肉痛や神経痛が起きる、と言った話を聞くが、私もそうなのだろうか。

先日悪化した足の傷と痛みは、ようやく治ったのに、今度は別の痛み。

何故次々体調不良が続くのだろうが

何かの予兆かも知れない。


飛行機ネタ。

四方を海で囲まれた島国・日本では、歴史上他国・他民族が侵入した事は一度もない。

唯一第二次大戦で、アメリカが侵略・攻撃をしただけで、約2.000年の歴史においての記録はない。

学校の歴史の授業を覚えている人は、鎌倉時代に現在の福岡県沿岸に、モンゴル民族の「元」が襲来した文永の役・弘安の役があるが、元軍は二度とも敗退し、侵略するには至っていない。

海は天然の要塞であり、最も信頼出来る防衛ラインと言える。

仮に島国を攻めようとするならば、制圧する為の地上部隊を上陸させなければならず、対岸まで数百キロ以上ある日本は、ある意味何もしなくとも海が国を守っている。

しかし世界の国々の大半は、国境を接しており、その概念が出来る以前から、他国・他民族の侵略は歴史であった。

特に多くの国と民族がひしめくヨーロッパでは、侵略そのものが歴史であった。

1941年、ナチスドイツは突然ソ連との国境線を越えて、侵略戦争を開始した。

この2年前、独裁者ヒトラーはこれもまた突然に、ドイツの東のポーランドとの国境線を越え、占領してしまった。同時にソ連も、ドサクサに紛れてポーランドとの国境を越え、東側を占領し、地図からポーランドと言う国を消してしまった。

ドイツは西部戦線で、既に英仏と戦争状態になっていたが、戦前ドイツとソ連は平和条約を結んでいた。

即ち41年、ソ連に侵攻する「バルバロッサ作戦」が発動するまで、独ソは「同盟国」だったのである。

ヒトラーはまず西部の英仏を叩き潰し、その後最も忌み嫌う「共産主義国家」のソ連を潰そうと考えていた。

当時の英仏両国は、軍事的に弱体と見ていたヒトラーは、英仏を片付けるまでの時間稼ぎにソ連と平和条約を結んだのである。

約束は破るためにある…ヒトラーはそう思っていたのかも知れないが、とにかく一方的に平和条約を破棄し、ソ連に侵攻したのである。

ドイツの侵攻を予知出来なかったソ連は、たちまちパニック状態になり、南北数百キロと言う気の遠くなるような莫大な前線を敷いたドイツ軍数百万は、あっという間にソ連西部のウクライナやベラルーシを飲み込み、翌年冬には首都モスクワに迫った。

平和条約に安穏としていたソ連軍は、充分の訓練を受け、この時の為に用意した最新鋭の兵器を持つドイツ軍に、なすすべすらなかった。

数はあれど、兵器は全て時代遅れで、ドイツ軍のように、現代戦の要である通信・輸送を包括した組織的軍隊ではなかった。

だがヒトラーの過剰な自己陶酔は、すぐに綻びを露呈する。

あまりに早い戦線の拡大は、補給線をいたずらに伸ばす事になり、思わぬ所で作戦が押し始めたのだ。

旧態化したソ連軍など、あっという間に全滅させられる、と言う根拠のないヒトラーの思い込みは、計画通りに進まなくなり、最終目標であるモスクワにたどり着いたのは、ヒトラーが全く予想しなかった真冬になっていた。

計画通りなら、厳しいロシアの冬が訪れる前に、ソ連は滅亡しているはずであった。

補給の遅れは重なるばかりで、イラついたヒトラーは兵器の補給ばかり優先させ、冬の対策を全くさせなかった。

数百万の兵士に冬用の装備は支給されず、主要兵器は全て寒さと雪で凍りつき、動かなくなった。

ただでさえ予定通り進まなくなったドイツ軍は、更に動きが鈍くなり、モスクワまで僅か数十キロの地点で撤退せざるを得なかった。

同時に多くの犠牲を払ったソ連は、当然ながら極寒には慣れており、疎開させた工場で兵器を休みなく生産し、出来上がった戦車や飛行機は、点検を受けるとそのまま工場から直接戦場に向かう戦略を取った。

ロシアの厳しい冬に「敗北」したドイツ軍は、撤退して態勢の立て直しを図ろうとしたが、2,000キロに及ぶ行軍は悲惨を極めた。

そこに先に立て直しを成就させたソ連軍が追い付いてきた。

武器・弾薬・食料が底を尽いたドイツ軍に、勢いづいたソ連軍は猛スピードでドイツ軍を追撃し、背後から撃った。

それでも戦い自体慣れているドイツ軍は、力尽きつつも反撃したが、最後にやって来たソ連軍は空からだった。

陸軍同様、開戦当時は大きく立ち遅れていたソ連空軍だったが、米英からの供与機のほか、ようやく独自の新しい機材を完成させつつあり、逃げるドイツ軍を空から襲って来た。

ドイツ空軍はそのたびに追い払ったが、「質より量」に思想転換したソ連軍の数の勢いは凄まじく、何の遮蔽物もない平原で、ドイツ軍はただただ逃げるしか手がなかった。

技術と言う点では遥かに上のドイツ空軍機だったが、数の上ではソ連空軍が圧倒的で、次第に押されて制空圏を奪われてしまう。

ソ連空軍は、戦闘機を迎え撃つドイツ機に向かわせ、地上軍には専門の機体で襲いかかった。

それがイリューシン設計局が開発した「IL-2」であった。

IL-2は「襲撃機」と言う、ソ連独特のカテゴリーの軍用機で、敵の地上兵力だけを攻撃する機体である。

今で言えば「攻撃機」となるが、IL-2の目標はドイツ軍の戦車や車輛、兵士であり、空戦性能は無視されていた。

平原をひたすら逃げるドイツ軍地上部隊を、低空で強力な武装で文字通り「襲撃」する。

しかもIL-2は、ソ連空軍で初めて集団的運用された機体であった。

即ち単機ではなく、小隊・中隊規模で攻撃を仕掛けるのである。

初期の機体は機関砲だけの武装だったが、すぐに改良が加えられ、ロケット弾や爆弾を搭載し、ドイツ軍に襲いかかった。

もちろんドイツ軍は反撃したが、低空で襲来するIL-2はしぶとく、対空砲が命中しても撃墜できなかった。

最初からこういう目的で設計された機体なので、機体の各部は「装甲板」で覆われていたのだ。

操縦席でさえ「風呂桶」のように、鉄板で囲っており、地上砲火はもちろん、迎え撃つドイツ空軍戦闘機でさえ、弾丸を命中させても撃墜出来なかったのである。

代わりにIL-2は大きさの割りに非常に重く、同程度の機体の倍重かった。

だが空中戦などは考えられておらず、とにかく敵地上部隊を攻撃する事が優先だった。

IL-2の登場で、敗色濃いドイツ軍は大パニックに陥り「ペスト」と呼んで大いに恐れた。

空軍でも「コンクリートでできた飛行機」と言われるほど、頑丈な飛行機であった。

IL-2は改良型を含めて、戦後まで生産され最後の機体は54年に生産。

総数は36,000機以上と言われ、軍用機としては「ギネス」に認定される最大の生産機数を誇る。

IL-2はよく「シュトルモヴィーク」と呼ばれ、この機体の名称のように扱われるが、これはロシア語で「襲撃機」の意味で、カテゴリーを指す。

即ち攻撃専用機は全て「シュトルモヴィーク」と言う事になる。

戦後ジェット機時代になっても、大戦の勝利に導いた「シュトルモヴィーク」の功績は忘れられず、ソ連は新たな機体の開発を考えた。

しかし50年代から60年代では、大戦中の「襲撃機」の思想では役に立たなくなっており、いくつかの設計局が設計した襲撃機の殆どは、計画だけに終わった。

しかしソ連は、新しい時代になって戦闘が多様化したからこそ襲撃機の必要性はあると考えており、一度とん挫したかに思える新型襲撃機の計画は捨てていなかった。

ソ連空軍は新しい襲撃機開発を決定すると、スホーイ設計局とIL-2を作ったイリューシン設計局が応じ、審査の結果スホーイ案が決定した。

そうして出来たのが「スホーイSU-25」で、NATOコードネーム「フロッグフット」である。

画像
       ↑ロシア空軍のSU−25「フロッグフット」(ウィキペディアより)


原型機は75年に初飛行し、量産型は78年から生産が開始されている。

SU-25は外観上も独特で、地上攻撃を専門とする攻撃機として、アメリカの「A-10」と同じカテゴリーになるが、一回りコンパクトである。

機体は直線を中心としたデザインで、主翼も現代機では珍しい直線翼である。

A-10とよく比較されるが、こちらも直線翼で、エンジンは尾部に大型のターボファンエンジンを搭載しているが、SU-25は主翼付け根に「埋め込み式」で取り付けられており、2基の「ツマンスキーR-95」エンジンは、ターボジェットである。

当時のソ連では、軍用はもちろん民間型のターボファンエンジンの技術が遅れており、民間用を転用できたA-10とは燃費の点で大きく遅れを取っている。

基本的に全天候性は求められていないので、機首にレーダーはなく、レーザー測距装置が取り付けられている。

一方A-10にもレーダーはないが、赤外線暗視装置などを「後付け」できるので、一応の全天候性は持っている。

直線翼には片側だけで5か所のパイロンがあり、これだけの武器搭載スペースを持つ機体は、ソ連機では初めてであった。

ソ連的なテイストはあるものの、開発時期から大いに西側を意識した機体であり、「攻撃機」としてのスタンダードを目指した初めての機体でもあった。

翼端にもパイロンらしき板状の物が見えるが、これは上下に開く「エアブレーキ」である。

主翼は胴体より長く、速度より搭載量と安定性が重視されており、A-10とほぼ同じ思想と言える。

特徴的なのは「IL−2」以来の、シュトルモヴィーク思想が復活したことで、コクピットは厚さ10ミリのチタン合金による装甲が施され、エンジンも装甲してある。

画像
         ↑ベルリン上空を飛行するIL-2m(ウィキペディアより)


後期型になると2基のエンジンの間にもチタン装甲板がはめ込まれ、万が一一方のエンジンが損傷・火災を起こしても被害を喰いとめるようになっている。

主翼とエンジンの位置関係は、イギリスの攻撃機「ブラックバーン・バッカニア」と似ており、エアインテイクも固定式の円筒形であることが同じである。

こうして見るとSU-25は、西側の「襲撃機」を参考にしたと見られる部分が多い。

SU-25は、ソ連構成国だったグルジア(現ジョージア)の首都トビリシ近郊にある、トビリシ航空機工場で生産が行われた。

SU-25の部隊への本格的配備は80年代に入ってからだが、79年ソ連は国境を接するアフガニスタンに軍事介入・侵攻し、共産党政権側の支援軍として全土に軍を展開させ、事実上の「占領政策」を行った。

そもそも介入の原因となったのは、共産党政権の独裁と腐敗主義にあり、イスラム原理主義者らによる反政府活動・ゲリラ活動が活発になったため、「同盟国」ソ連に支援を仰いだことが始まりであった。

しかし国民の政府への信用度は極端に低く、多数のゲリラは「侵入」に反対した西側の武器支援を受けて、ソ連軍と対峙するようになる。

アフガニスタンは、標高数千メートルの山岳地帯が多く、夏は高温と換装、冬はロシアより厳しい寒さと雪が多く、ソ連軍は苦戦を強いられた。

大戦中之ドイツ軍と同じく、アフガニスタンの自然環境を考慮しない軍事介入だったため、ゲリラの方が戦いを有利に進めることになってしまったのである。

急峻な山と渓谷ばかりの内陸国で、ソ連お得意の地上軍は行動を著しく制限され、ゲリラにはヘリなど航空戦力に頼るしかなかった。

遮蔽物のない平原のロシアとは、あまりにかけ離れた環境であり、ソ連軍は「第二のベトナム」と呼ばれるほど、いたずらに犠牲を増やしただけであった。

アフガニスタンでは新鋭の攻撃ヘリ「MI-24ハインド」が有名だが、同じく新鋭機のSU-25も早速実戦投入された。

残念ながら戦況を奪回するには行かなかったが、「シュトルモヴィーク」としての面目は大いに保つ活躍を見せた。

当初ゲリラ側は大戦型の古い対空砲や、手持ちのライフル銃で闘っていた。

古い対空砲の殆どは12.7ミリ機関銃か20ミリ機関砲で、ゲリラは高価な「徹甲榴弾」を持っておらず、通常の徹甲弾だけで撃ってきたため、SU-25は装甲板で守られた。

20ミリ砲弾でさえ、装甲板が凹む程度で貫通する事はなく、機体の損失は殆どなかった程のタフさ加減を見せつけた。

初期のSU-25は機首に「Gsh-30」に連装機関砲を固定武装に持ち、ロケット弾・爆弾の他、レーザー誘導対地ミサイルを運用出来たが、テレビ誘導式ミサイルは運用出来ず、コクピットにHUDはなく、旧式の光学式照準器があるだけだった。

その為ピンポイント攻撃には向かず、穴や山かげに身をひそめるゲリラを攻撃するのは難しかった。

そこで、ゲリラのいそうな場所を爆弾で攻撃して「あぶり出し」、出て来たところを「ハインド」攻撃ヘリが攻撃する、と言う戦術に変えられた。

しかし密かに西側の支援を受け始めたゲリラは、対空砲を更新し、対空ミサイルをも持つようになる。

特に携帯対空ミサイル「スティンガー」が大量に供与され、速度の遅いヘリが次々撃墜される事態となり、SU-25は「無差別空爆」まで手を出すことになった。

大国の卑怯さが露呈した形で、戦闘員のいないはずの町や村をSU-25で空爆し、市民にゲリラへ協力しないようにさせるためであった。

多くの一般市民が犠牲となり、「ハインド」とともに「SU-25」は、アフガニスタン国民だけでなく、世界に残酷な兵器として忌み嫌われることになってしまった。

「スティンガー」は、SU-25にも大きな脅威となったが、急きょ「チャフ・フレア」と言ったミサイル回避装置を付けた事と、持ち前の装甲による頑丈さで、「ハインド」に比べ損害は遥かに少なかったと言う。

ソ連機らしい所は欠点も受け継いでおり、航続距離の短さは相変わらず致命的であった。

とにかく頑丈でたくさん武器を積めるようにしているので、燃料タンクは小さく、エンジンはターボジェットなので、行動半径は300キロ未満しかない。

もちろん主翼のパイロンに増槽をつけることはできるが、空中給油装置はなく、出撃には「満載」状態で離陸しなくてはならない。

そうなると武装搭載量はおのずと制限されてしまう。最大積載量は4.5トンと言われるが、増槽を含めると、現実には1〜2トンが限界で、十分な攻撃力を得るには対地ミサイルかロケット弾が有効である。

ソ連特有さのひとつ、多数の改修・改良型が計画され、確認されただけでも10種類以上あると言われるが、いずれも数機の試作だけで終わっており、派生形は基本型である「SU-25」の他、エンジンをパワーアップして、コクピットをグラス化した「SU-25SM」と、複座型の「U」、それぞれの輸出型と最終型の「KM」に大別される。

ソ連崩壊直前、初の大型空母搭載機としてSU-25が選ばれ、複座型をベースとして改造されたが、崩壊後の混乱で予算が取れなくなり、開発は中止されている。

その為ソ連空軍後は、ロシア空軍が引き継いでいる。

ソ連解体後も、ロシア空軍の主力攻撃機として残るSU-25だが、問題も発生した。

初期のSU-25は全て「トビリシ航空機工場製」だったが、輸出が増えたためロシア国内の「ウラン・ウデ工場」でも生産された。

だがソ連崩壊後、ジョージアはロシアと対立するようになり、ロシアにとってSU-25の調達が不可能になってしまった。

そこで「ウラン・ウデ」で生産を開始したのである。

つまり現在において、SU-25は「ジョージア」製と「ロシア」製があるのである。

90年代になると、ロシアとジョージアの対立は深まり、両国の国境にあるアブハジア・オセチアで民族紛争が起こると、ロシアが支援する2地域とジョージア画、実質的な戦争状態になった。

特にアブハジアは単独で独立宣言をすると、駐留していたロシア軍が自動的に「アブハジア軍」になり、SU-25も移管された。

その為紛争中、ジョージア空軍・ロシア空軍・アブハジア軍のSU-25が、上空で「空中戦」になると言う珍事が発生した。

しかも3軍とも、機体の国籍マークはソ連時代の「赤い星」のままで、全く同じ機体が敵見方に分かれて戦闘した。

地上からの「誤射」も後を絶たず、SU-25は飛行停止を余儀なくされたと言う。

画像
      ↑ジョージア空軍のSU-25UB(ウィキペディアスペイン語版より)

SU-25は約1,300機生産され、ロシアでは2015年頃、ジョージアでは昨年まで生産が続けられていたと言うが、ジョージア側が正確な生産数と輸出数を発表していないため、正確な生産数は不明である。

ジョージアではイスラエルのエルビット社と提携して、完全なグラスコクピットとHUDを持つ改良型「SU-25KM」を開発し、自国の古いSU-25と交替させたほか、アフリカ諸国等に売り込みを図っていると言う。

だがロシアもHUDを装備した「SM」の改良型を開発し、既存の機体を更新しているほか、輸出国に代替えおよび輸出を図って、ジョージアへ「邪魔」をしていると言う。

画像
       ↑ロシア空軍の改良型SU-25SM(ウィキペディアより)

これら改良型は、主に精密誘導兵器を運用できるようになっており、スタンドオフ機能を持つ対地ミサイルの運用が可能だ。

SU-25は典型的な「前線攻撃機」であり、整備性も優れている。

脚は前脚と主脚が接近してついているが、タイヤは機体の割りに大きく、前脚はロシア特有の「泥はね」もついていて、不整地での運用が可能である。

改良型は、アフガンでの体験を生かして、高温や乾燥・埃等の対策が取られており、非常に実用性に優れた機体になっている。

大きな主翼は、飛行にクセをもたらせず、操縦性は極めて良く、扱いやすい。

大戦中のIL-2は運動性はないに等しかったが、SU-25は運動性も良い。

エンジンは古く黒煙を吐くターボジェットだが、パワーと加速性に優れ、敵の砲火を避けて離脱することは容易である。

最高速度は約900キロと、音速には及ばないが、A-10より高速である。

固定武装の「Gsh-30」30ミリ連装砲は、250発の弾薬を持ち、強力な破壊力を持つ「劣化ウラン弾」を発射出来る。

A-10の30ミリアベンジャー砲に比べると、初速・弾薬量は劣るが、装甲車輛の攻撃には絶大な威力を示す。

画像
     ↑SU-25機首下部に装備されたGsh-30連装砲(ウィキペディア英語版より)

電動式ガトリング砲に比べ、動力部がないので構造が単純で生産しやすく、砲身の交換も容易に作られている。

ソ連時代は古く重い機関砲ばかりだったが、SU-25は機関砲も世界標準に近づけた物になっている。

こうした特徴から、現在も現役で運用する国は多く存在する。

ソ連解体後、構成国に駐留していたソ連軍は、無条件でその国の国軍に編入する事が出来たが、独立したことで維持費も自国負担になったため、維持費のかかる機材はロシアに返還したり、輸出したりした機体が多かったが、維持費が安いSU-25はそのまま運用する国が多い。

画像
        ↑カザフスタン空軍のSU-25K(ウィキペディア英語版より)

画像
         ↑トルクメニスタン空軍のSU-25K(ウィキペディアより)

冷戦時代末期だったが、東欧のワルシャワ条約加盟国や他の東欧諸国にも供与され、冷戦終結後も現役に残す国が多かった。

最も多くのSU-25を持っていたのが、旧チェコスロバキアで、100機以上のSU-25が供与されたが、チェコとスロバキアに分裂後、両国とも退役させている。

チェコは中古機としてSU-25を放出し、「ユーゴスラビア」から分離独立したマケドニアやブルガリアに売っている。

この2カ国は経済的に苦しい立場にあるため、維持費の安く比較的新しいSU-25は貴重な空軍力であり、整備性が良いのも実利にあっていた。

機数は多くない物の、ブルガリア空軍では主力攻撃機として現役にあり、小国のマケドニア(日本では旧ユーゴスラビア・マケドニア共和国)は同空軍唯一の固定翼作戦機として、防衛の任務も持つ。

画像
           ↑ブルガリア空軍のSU-25K(ウィキペデイアより)

画像
           ↑マケドニア空軍のSU-25(ウィキペディア英語版より)


アフリカ諸国でもSU-25は人気があり、特に内戦の多い国では重宝されている。

民族紛争やテロ組織相手では、高級なミサイルや誘導兵器より、単純な機関砲やロケット弾の方が効果が得やすい。

画像
          ↑スーダン空軍のSU-25(ウィキペディア英語版より)


画像
         ↑チャド空軍のSU-25K(ウィキペディア英語版より)


上の2枚はアフリカ、スーダンとチャドのSU-25だが、どちらも情報が殆どでない国であり、内戦の絶えない国である。

国内の情報・画像でさえ、規制も強く全くと言って良いほど海外に伝わることがないのは、北朝鮮波である。

それでもプロバガンダで時々世界に見せる北朝鮮と違い、この2カ国は隠すと言うより、出す気さえない。

スーダンはアフリカでもっとも大きな国だが、南部の「南スーダン」独立に関わる内戦が続き、現在も南スーダンと紛争状態にある。

この画像は空港で撮られたものだが、背後に「UN」と書かれたボンバルディアCRJが映っており、紛争中の撮影であることが分かる。

撮影者は国連関係者であろうか、紛争当事国で軍用機を撮影したと言うのは命の危険もあったのではないか。

もちろん正式な許可をもらっての撮影と言う可能性はあるが、貴重な画像である。

下のチャド空軍機も、恐らく史上唯一のものではないか。

スペックには12年に首都ンジャメナ空港で撮影したとあり、その様子から機体の傍で撮影していて、こちらは許可をもらっての撮影であろう。

チャドはアフリカ中央部にある内陸国で、スーダンの隣国でもあるが、こちらも内戦が絶えない国だ。

スーダンと違い、旧フランス領だったため、現在もフランス軍が駐留しており、チャド軍の管理もフランスがしているのかもしれない。

チャドは「世界最貧国」の一つで、「失敗国家」の1位でもある。

国軍の状況など、全く情報がなく、存在自体も知られていない中にあって、このSU-25の写真は更に貴重である。

でも自国で維持できるとは思えないので、パイロット・整備などはロシア人かジョージア人の「傭兵」である可能性が高い。

スーダン・チャドのSU-25は、ロシア製なのかジョージア製なのかは不明で、外観上での区別は不可能。

実機の製造番号で判断するしかないように思うが、チャド機は6年前とは言え新造機に見えるので、ジョージア製ではないか。

SU-25は大きな攻撃力を持つが、運用している国の用途は様々で、先に書いたマケドニアのように「防空戦闘機」として使う国もあるが、どちらかと言えば「COIN機」(反乱鎮圧用軽攻撃機)に近い運用を持つ方が多い様に感じる。

ハイテクではないが、攻撃機としての基本はしっかり押さえている・・と言う事、維持のしやすさが支持されているのだろう。

登場時は冷戦時代で、ソ連の新型機に西側は鵜の目鷹の目で情報を探したが、意外にもSU-25はあまり注目されなかった。

最初に西側に公開したのはソ連ではなく、供与した衛星国のチェコスロバキア空軍であった。

既に冷戦末期で、チェコやハンガリーは一足先に自由化が進んでいて、SU-25を簡単に公開した。

ソ連はそれを止めなかったのは、もう秘密にする余裕がなかったのか、それとも西側が関心を持つ程の機体ではなかったのだろうか。

実際極めて限定された「襲撃機」であることは、一目見ただけでわかるし、優れた電子装備もないことが分かるからか、確かに西側の関心度は低かった。

むしろ高性能の「MIG-29」「SU-27」の方に強い関心が持たれており、SU-25にとっては不本意であったかもしれない。

画像
          ↑チェコ空軍の特別塗装したSU-25K(ウィキペディアより)


画像
        ↑スロバキア空軍のSU-25UBK(ウィキペディア英語版より)


冷戦末期の「ソ連機」ではあるが、一応80年代の機体であり、オリジナリティはありながら、いい意味での「ソ連機」らしさが消えた最初の機体とも言える。

ソ連機ファンとしては微妙なところで、独特ながら若干魅力に欠ける気がしないでもない。

実際つい最近まで生産されていた「現用機」であり、再生産の可能性は高いので、「ソ連機」と言うより「ロシア機」の範疇に入るだろう。






梅雨ですねえ・・・・夜も霧雨が断続的に降っている。

霧雨、と言うのが仙台らしいのだが、じゃあ傘は入らないかと言うと、時々サーッと強まる。

街ではさすがに半袖姿の人は見かけず、女性は服装の切り替えに大変だろうな、と思う。

寒い訳ではないか、先週の蒸し暑さを思えば、充分肌寒い。

バスの窓は曇ってビシャビシャ。

いかに湿度が高く、空気がヒンヤリしているかが分かる。

今日はかさばり重い買い物があったので、傘を指しながら歩くのがしんどい。

これから1カ月以上、ひょっとしたらそれ以上雨の季節が続く。

嫌がっても仕方ないから、付き合うしかないのだけれど。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雨は大丈夫でしたか?

急な気温の低下、君が体調を崩していないかちょっと心配です。

体が付いていかないこともあるので、気をつけて下さい。

万が一体調を崩してしまったら、決して無理をせず休んで下さい。

明日も雨が降りやすいようなので、外出の際には注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


くれなゐに 染めてし衣 雨降りて にほひはすとも 移ろはめやも(万葉集巻十六 3877 豊後国白水郡の歌)



☆今日のバス

692号車 02年式三菱ふそうニューエアロスター(MP37JM) 野村車庫(元名鉄バス)

331号車 11年式三菱ふそうニューエアロスター(MP35FM) 泉営業所


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
飛行機ネタ・現代のシュトルモヴィークSU-25(6月11日 雨 18℃) CRECHANのブログ 「風の道」/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる