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zoom RSS 飛行機ネタ・日本初の実用超音速機F-1(6月12日 曇り 18℃)

<<   作成日時 : 2018/06/13 02:07   >>

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梅雨空3日連続。日中は雲が少し薄くなった時間があったが、終日薄暗く、肌寒さが続いた。

雨は小雨が降ったくらいだったが、いかにも梅雨らしい天気ではある。

私は体調不良が続き、よく眠れず痛みが断続的。

寒かったのか、朝は気管支に痰が絡んで、呼吸が苦しかった。

いつまでも元気になれない。

それは悩みから諦めになってしまい、本当の意味で絶望になると困る。

今日のメディアは「初の米朝首脳会談」で持ち切りだ。

シンガポールに行われた会談は無事終了し、トランプ大統領と金委員長は覚え書きにサインした。

歴史的会談、平和への一歩…と世界は騒ぐが、私は申し訳ないが、感動を覚えない。

ガチンコ対決を回避したいだけの「政治パフォーマンス」にしか、どうしても見えないし、両国の首脳がどこまで本気なのか、わからないからだ。

北朝鮮はついこの前まで核実験を行い、ミサイルを発射し続け、アメリカはもとより、韓国や日本にまで「火の海にする」「海に沈める」と脅迫して来た国家であり、まるでヤクザのような態度を取るただ一つの国だ。

それが僅か数ヶ月で、手のひらを返して「非核化します」など、どうして言えるものか。

本気なら、北朝鮮国民に何と説明する?

これまで数十年間、アメリカと同盟国、同民族の韓国までも憎ませて独裁体制を維持して来た国が、理由もなく「平和」を口になど出来る訳がない。

いつも言うように、現在の北朝鮮国民は古代新羅の末裔である。

新羅は同じく半島にあった百済・高句麗と覇権を争い、大国唐と組んで半島を統一したが、その後公然と唐を裏切った。

それ以前も、併呑される事を恐れた新羅は、日本にゴマを擦り、支援を求めて唐に対抗しようとした。

しかし日本は長年同盟国だった百済を支援した為、唐にすり寄って百済と高句麗を滅ぼした。

実際には唐軍が動いたのであって、新羅は後続しただけだったが。

小国が生き延びるには手段を選ばず、と言うのはわからないでもないが、彼らの手段は「ウソ」「裏切り」の歴史である。

今回の北朝鮮の態度は、古代新羅と気味が悪いほどそっくりであり、アメリカだけでなく、世界を裏切る可能性がない、と言い切れるだろうか。

私は単なる時間稼ぎしているようにしか見えず、油断させておくだけではないかと思う。

首脳会談の約束など、いざとなったら簡単に破棄するだろう。

お得意の「人のせい」にして、アメリカが約束を破ったと騒ぎ立て、核開発を再開する。

北朝鮮は国際条約を一方的に破棄、脱退した経緯があり、書面上のサインなど重要と思っていないだろう。

両国首脳の「バカし合い」にならなければ良いが。

トランプ大統領はある程度わかっていながらなのか、自分の功績を残したいだけで、素直に信じているのだろうか?

私はどうしても、素直な気持ちで見れないでいる。

首脳会談の騒ぎ過ぎで、殆ど忘れられてしまったのは、「県民防災の日」。

6月12日は、宮城県沖地震が発生した日で、今年は「40年」の節目である。

まさか33年後に未曽有の「東日本大震災」が起こるとは思わず、すっかり震災の陰に隠れてしまった感が ある。

しかも宮城県沖地震を体験・記憶している人は、県民の半数以下に違いない。

毎年書いているけど、40年前即ち1978年(昭和53年)は、私は小学校6年生。

小学生には絶対忘れられられない、衝撃的な体験であった。

地震が発生したのは17時15分頃。数分前に「前震」と思われる地震があり、本震はM7.3だった。

最大震度は5と発表されたが、当時震度は気象台の担当者の「体感」とアナログの地震計だけで判断されたため、後から顰蹙を買った。

結果論だったが、被害から震度5は低い値であり、後年の分析では、最大震度6強、仙台市内でも最大震度6弱もしくは5強だったと言われている。

地盤の緩い市内東部では、ビルの倒壊があった他、住宅地ではブロック塀の倒壊が相次ぎ、下敷きになった死傷者が多数出た。

津波の被害はなかったものの、土砂崩れや道路の陥没が相次ぎ、特に市ガスは大きな被害が出て、最大一カ月半も停止した。

戦後初の「都市型災害」として、防災の教訓になった地震であった。

幸い我が家の被害は少なかった。

停電したものの、深夜0時頃には復旧し、水道は一時的に濁ったが断水はなく、プロパンガスを使用していたので、インフラの不足は殆どなかった。

翌日ガス業者が点検に訪れ、機器の破損やガス漏れがない事を確認し、正直生活に支障はなかったと言える。

被害は地域差が大きく、全くない地域と大きな被害が出た地域がはっきり分かれた地震であった。

元々地震多発地帯の為、良い意味で慣れていたのが、パニック状態にならずに済んだとも言える。

今でも覚えているが、大きな揺れに私と祖母はたまらず外に飛び出すと、地面がまるで海みたいに「波打った」ように見えた。

左右に傾いて揺れ、生まれて初めて「死」を意識した瞬間だったように思う。

地面が波打つなど、それまでに想像すらつかない光景だったのだから。

最も子供の目線がそう見えたのであって、実際には違っていたとは思うが。

東日本大震災の時は、そう見えなかったから、やはり子供の思い込みだったと思う。

改めてもう40年も経つのか、と思う。

子供のころの記憶など、よくよく思い出さないと無理に思えるが、そうでもない。

あの頃私は母、祖父母と4人暮らし。

母は私が6歳の時に離婚して、実家に戻った。

本家だったから、週末ともなると叔父たちがいつもやってきて、酒を飲みながら賑やかだった。

父親がいない生活だったが、息子に全く愛情を注がない人だったので、子供の私でも寂しさはなかった。

と言うより祖父母と暮らし、叔父や親せきがしょっちゅう来るので、とにかく毎日が疑義やかな生活であった。

今でも思い出すことができるが、40年経ち家族は一人もいなくなった。

翌年に祖父が亡くなり、その後独身を通していた叔父が一緒に暮らすようになった。

もう30年近くなるが、叔父と祖母も続けて亡くなり、暮らした家と土地は人手に渡り、家自体なくなった。

それでも私と母は生き残ったが、40年を前に母も突然亡くなり、あの日を共にし思い出を語る家族は一人もいない。

それだけ長い時間と言う事なのだろうが、私にはその長さを自覚出来ることが出来ずにいる。

この40年間、どんなことがあったのだろうか?

そう考えると、あっという間の時間であり、私がこの世に一人残ったことは、時間が殊のほか残酷におもえT得ならない。

大事な家族が亡くなるのは当たり前で仕方ないことだけど、祖父母・母・そして私へと繋がる血筋は、あと何年かで永久に絶える可能性が高い。

その日は明日か明後日かも知れないし、30年後かも知れない。

もちろん「万が一」の確立だけど、私達の血筋を引いてくれる「人」が出てくる可能性は「0」ではないだろうけど、今の私の状況を考えれば確立は極めて低そうだ。

僅か半世紀の人生で、まさか大地震を二度も体験するとは思っていなかったが、三度目はあるのかどうか。




飛行機ネタ。

航空自衛隊・防衛庁には、通常の軍隊にはない「用語」がいくつかある。

国民であれば知っている人は多いだろうが、自衛隊は「軍隊」ではなく「役所」の一つである。

何が違うのか、と言えば、「国軍」すなわち軍隊は、国防のために独自の行動権限を持つ。

もちろん勝手に行動は出来ないが、現場では軍の判断が優先される。

言い方は悪いが、軍隊は戦争の「プロ」であり、戦いの決定は独自で行うのは当然である。

例えばアメリカでは、軍の行動自体を発動し、命令するのは大統領だが、戦術や戦略と言った戦いのことに、口を挟む権限はない。

元首として国が取るべき行動を決定する事は出来ても、どこそこを撃てとか言うことは出来ないのである。

ならば自衛隊はどうか?

良くも悪くも「お役所」仕事であるから、最終的な決定権は時の内閣総理大臣にあり「総司令官」もまた総理大臣である。

日本は憲法第九条により「軍隊」の保有を禁じ、専守防衛のための「組織」は許されている・・と解釈される。

それが現在解釈をどうするか、と言う事で紛糾している訳だが、「軍隊」にしてしまうと「専守防衛」が「先手防衛」になると困る。

アメリカを含め、世界にはこれが骨子となる国があり、自国に対し「安全の脅威となるものは、排除・阻止する権利」を主張する。

アメリカと北朝鮮が緊張に陥ったのは、北朝鮮の核兵器が「アメリカ」を狙う物・・と判断されそうになったからだ。

断定されれば、アメリカの連邦法により「有事になる前に脅威を排除できる」ことから、軍は行動を取ることができる。

しかし日本の自衛隊は、その行動権利を持たされていない。

あくまで「敵国」が、明らかに日本の主権を侵した場合、すなわち直接「攻撃」を受けた場合に限って「防衛行動」が許される。

おわかりだろうか?現行では、「被害」を受けない限り、自衛隊は「防衛」の為に行動は出来ないのである。

「自衛隊は違法だ」などと言っている人に、聞いて見たい。

ある日突然「某国」の巡航ミサイルが飛んできて、あなたやあなたの家族のいる場所に落下したら、あなたは家族の犠牲をどう考えるのか?

それでも「戦争反対、自衛隊は違法、憲法を守れ!」と言い続けることができるだろうか?

あなたは政府に文句は言えない。

「私の家族は平和憲法を守るために、喜んで犠牲になった。」と言えるのだろうか?

それでは戦時中の「お国の為に死んだ」と、何らレベルは変わらないではないか。

今の憲法を「遵守」し続ければ、そういう日が来る可能性があるのだ。

安倍首相が「自衛隊を国軍に」と言ったことがあるが、そういう気持ちはわからなくもない。

現代において、世界のどこで気の狂った連中が戦争を始めるかわからない時代にあって、建前の遵守など綺麗事以下になるだろう。

今の憲法では、もし某国に攻撃されたとしても、自衛隊は即座に行動出来ない。

被害を詳細に報告し、その出先の各所がえられ、明らかに「侵略行為」であると証明でき、然るべき手続きを踏んで、総理大臣に報告され、関係閣僚と協議の上、ようやく「防衛出動命令」が出される。

ミサイルなど、僅か数十分で着弾する時代に、こんな「お役所」仕事でどうやって国を守れと言うのか。

手続きを踏んでいる間に、罪のない国民数百万の命と財産は灰になっているだろう。

もちろん「万が一」の話には違いないが、今でこそ時代に合わせた防衛に尽いて考え直す機会があるが、少し昔はそれが「美徳」であり、日本の平和はそれで保たれていると考えられていたのである。

自衛隊は1954年、警察の別組織として発足した。

「警察予備隊」として発足したが、法の施行が大きく違うため、間もなく「自衛隊」となった。

しかし敗戦国として、日本は「生まれ変わった平和の国」になるために、戦時の「侵略国家」のレッテルを封印するために「建前」が優先された。

例えば戦車と言うと「軍隊」のイメージがつき、「特車」と呼び、「戦闘機」は「要撃機」として言葉の響きさえも「軍隊」のイメージを払拭しようとした。

現在ではあまりに非現実的として「戦車」の呼称が使われるようになったが、「要撃機」は継続している。

そして「攻撃機」もまた、言葉のイメージが良くないとして「支援戦闘機:と呼ぶ。

何だ「戦闘機」と言っているじゃないか、と言われそうだが「支援」が付いているから良いのである。

英語に訳せば「Surport Fighter」になり、意味は通じるが、何をサポートするのか?と質問されるだろう。

日本は四方を囲まれた島国であり、地上で敵が国境を越えることはない。

なので防衛の中心は陸上より空と海であり、陸上での「防衛出動」が出された場合は、国土に敵が「上陸」した後であり、同時の国土は「戦場」と化する。

そうならないために、日本を目指す敵は必ず海上を「侵攻」して来る訳で、それを「食い止める」のが艦艇と「支援戦闘機」になるのだ。

「支援戦闘機」と言う呼び方は、平和憲法による建前であることは、事実上は「攻撃機」であることは言うまでもない。

60年代までの航空自衛隊には「支援戦闘機」すなわち攻撃機は存在せず、「要撃機」の主力にF-104Jスターファイターが登場すると、余剰となったF−86Fセイバーを初めて「支援戦闘機」として運用する事になった。

しかしF-86Fは40年代に開発された古い機体であり、攻撃機としての能力は持っていなかった。

ぜいぜい爆弾2発とロケット弾、機首の固定武装である12.7ミリ機銃で、海上を進んで来る敵の上陸部隊を阻止しなければならず、効果は殆ど期待できなかった。

F-104Jの就役で,日本も超音速時代を迎え、それに合わせた「高等練習機」が必要になっていたことから、同一機種で練習機と攻撃機を兼ねる機体の開発・選定が始まった。

国産にするか、輸入にするか、まずそこで国会・防衛庁(当時)・自衛隊の意見が分かれ、躓いてしまった。

アメリカ・ノースロップ社が「F-5EタイガーU」を開発したばかりで、基本が共通の「T-38Aタロン」練習機があることから、一時決まりかけた。

F-5シリーズは安価で整備性も良く、各国で売れていた機体である。

しかし自衛隊は拒否した。そもそもF-5Eは軽戦闘機であり、レーダーは簡易的な空戦専用しか積んでおらず、爆弾などの搭載量は極めて少なく、将来的な発展が見込めなかった。

また技術の蓄積、という点から「国産機」の開発を望む声も大きく、結果「純国産機」で開発する事になった。

67年に政府の計画案が出され、設計は三菱が担当する事になり、モックアップを製作して試験した後、71年にまず「高等練習機」である「T-2」の原型機が初飛行した。

同じ頃、ヨーロッパでは高等練習機と攻撃機として共通の「SEPECATジャギュア」開発されており、その思想を大いに参考にした。

航空自衛隊では初等練習機として国産の「T-1」、中等練習機として「T-33A」を使っていたが、超音速機はなく、複座のF-104DJしかなかった。

F-104DJは実戦機であり、機種転換用の機体で、操縦性は難しく練習機には適していなかった。

新人パイロットでも容易に操縦できる練習機は、必須であった。

防衛庁では「支援戦闘機」も同型で開発する事にしていたので、共通の設計となり、T-2の部隊配備を進めつつ、合計4基の「T-2」を実験機として改造し、「FT-2改」として研究・試験を進めた。

設計の段階でいわゆる「リバーシュブル」性を考慮してあったため、改造は容易で試験も順調だった。

そして75年度より支援戦闘機「F-1」として生産・導入が認可されたのである。

名前は「戦闘機1号」と言う意味が込められているが、文字通り日本が初めて作った単座超音速「戦闘攻撃機」であり、記念すべき機体である。

スペックはT-2とほぼ同じであり、当時超音速機の練習機はT-2が唯一であった。

エンジンはイギリスの「ロールス・ロイス・アドーア102」をライセンス生産した「IHI-TF-40」ターボファン2基を搭載し、超音速性を高めるためと、攻撃機として使うため、主翼は肩持ち式の高翼となっている。

主翼は後退角を持つが、きつくはない。

複座型のT-2はタンデム式だが、F-1では単座になり、後席部分は機器室に宛がわれている。

その為後方の視界が大きく犠牲になってしまったが、それを改善しようとすると胴体の設計変更が必要になるため、あえて目をつぶった。

T-2は練習機だが、F-1の完成を受けて、後期型では機首にレーダーと固定武装「M61 20ミリバルカン砲」が装備されている。

世界広しといえども、超音速機でレーダーとバルカン砲を持つ練習機はT-2だけである。

F-1は単座になって、機種のレーダーは火器管制装置を持つ「J/AWG-12」に換装され、慣性航法装置・対艦ミサイル誘導装置など、攻撃機として水準の電子装備を持っており、我が国初のHUDを新造機から装備した機体でもある。

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           ↑三菱F-1支援戦闘機(ウィキペディアより)

先に書いた防衛構想から、F-1の主任務は「シーレーン防衛」であり、機体と同時にこれも我が国初の誘導式対艦ミサイル「ASM-1」が主武装として計画された。

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            ↑ASM-1対艦ミサイル(ウィキペディアより)

爆弾はMK.82 500ポンド爆弾であれば最大12発を搭載出来たが、主翼に燃料タンクを持たないF-1は増槽は必須であった。

その為爆弾は主翼パイロンに2発ずつか胴体下の大型パイロンに4発、と言うのが標準である。

主翼はアスペクト比の小さいもので、コンパクトさを追求した結果、補助翼を設けることが出来なかったので、遷界は主翼上面のスポイラーで行う「横操縦法」を採用した。

この方法は、低速域での運動性は良くなるが、高速時の旋回能力が落ちると言う欠点があったが、性格上大きな問題にはならなかった。

F-1は「支援戦闘機」としての任務を持つが、「要撃機」としての任務も司ることがあり、緊急時にはスクランブル発進もした。

しかしエンジンのパワー不足は否めず、対空戦闘には全く不向きであった。

まず対空戦闘用の装備は貧弱で、武装と言えば固定機関砲と翼端のパイロンにつける「AIM-9サイドワインダー」だけ。

ビームランディング式の中射程ミサイル「AIM-7スパロー」の運用は出来ない。

「TF-40」エンジンは、軍用としては初期のターボファンジェットで、頑丈で故障の少ないエンジンではあったが、急激なスロットル操作の反応が鈍く、何よりパワーが低かった。

これは退役するまでまとわりついたF-1最大の悩みだった。

元々練習機がベースなので、攻撃用の機器を搭載したF-1は自重だけでも1トン近く、武装するとT-2より4トンも重くなっていた。

最初からわかっていた事だが、万が一敵戦闘機に追いかけられる事態になると、ただ低空を直線飛行で逃げる意外手段がなかった。

パイロットの回顧によれば、武装や増槽をつけない「クリーン」状態のF-1は軽くてすばやく、運動性も良かったと言う。

当時のパイロットは、T-2でじっくり教育されていたため、機体のクセは熟知していたが、その分「重さ」が極端に性能を落とすことも知っていた。

事実空自のアクロバットチーム「ブルーインパルス」に採用されたT-2は、素晴らしい妙技を見せ続けており、空力的にもT-2/F-1は優れたきたいだった。

共通化を図り、開発コストを抑えるのが目的だったので、実戦機としてのもの足りなさは仕方ないこととも言えた。

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            ↑高等練習機T-2(ウィキペディアより)

米軍との合同演習では、重くて思うように飛べないF-1はすぐに敵役の的になりやすく、パイロットは悔しい思いをしたと言う。

ダガ低空での高速性と安定性は、米軍機にはない物があり、海上で高度数メートルと言う超低空を音速近くで彦ゆすると、敵役は中々捕捉出来なかったという。

「ASM-1」対艦ミサイルは、射程約60キロ、重量600キロで、固体燃料ロケットで推進する。

F-1は主翼に1発ずつ吊り下げ、海岸から150〜200キロ進出して、敵の艦艇に向けてミサイルを発射する。

陸上目標に対しては70ミリロケット弾、爆弾があるが、今流行の誘導爆弾や巡航ミサイルは運用出来ない。

通常爆弾攻撃には、精密な爆撃コンピューターが搭載されているので、同時期の攻撃機と比べ命中率は高かったと言われる。

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            ↑退役記念塗装のF-1(ウィキペディアより)

面白いのは、自衛のためのレーダー警戒装置、ミサイルを回避する「チャフ・フレア」が装備されていないことである。

これはT-2と共通だったため、そのスペースが取れなかったことによるものだが、実戦では胴体下部に後付けの警戒装置をつけて飛行していた。

また主脚は、非常に複雑な機構を持つ絞り込まれた胴体に、効率よく収納するための措置だが、タイヤは前脚ともF-104と同じサイズである。

これはもちろん運用上コストをセーブするものだったが、F-1の整備性はあまり良くなかった。

エンジンが機軸に対して若干下がっているため、整備時の取り外し・取り付けには熟練を要したと言う。

また部品を止めるボルトの数が多く、整備には手間がかかったと言われる。

「ジャギュア」とそっくりだと言われるF-1だが、大いに参考したのは練習機と攻撃機が兼用できるところにあり、エンジンが同型だから似るのは当然であった。

しかし主翼はF-1の方が小さく、重量は構造材の違いから若干重い。

ジャギュアを「練習機」として使うつもりだったイギリス空軍は、その高性能さに攻撃機とし愛用する事に転換したが、F-1は最初から練習機として設計され、必要あらば攻撃機に転換する・・と言う、ジャギュアとは明らかに異なる設計思想である。

その証拠に練習機としては、現在のレベルでも世界的にトップクラスと言われている。

クリーン状態ならば、操縦性は素直で、超音速飛行訓練も簡単に移行出来た。

ただ基本スペックを練習機に置いたため、攻撃機としては多少もの足りない性能になってしまったところが、ジャギュアと対照的なのだ。

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          ↑2枚・ブルーインパルスのT-2(ウィキペディアより)


何より「初の超音速国産機」として実用化された両機の功績は、日本の航空業界・技術にとって残した功績は大きい。

予算や世論に揉まれ、そのことはあまり触れられずに終わってしまったのが、何とも気の毒である。

F-1は当初123機の調達が予定されていたが、予算の削減で77機まで減らされ、空自戦闘機の中では最も機数が少なく地味な存在であった。

多少のハンデはあったものの、同機のパイロットはベテランが多く、持ち前の「職人根性」で、演習の時など勇猛果敢だったと言う。

先の米軍との合同演習でも、欠点を腕でカバーして超低空を飛んでくるF-1に、米軍は敬意を払っていた。

彼らも性能のハンデを知っていたようで、F-1はやられっぱなしと言う訳ではなかったのだ。

F-1はT-2とともに、06年に全ての機体が退役した。

後継機種は、第4世代の国産機「F-2」になり、世界水準以上の攻撃機・支援戦闘機になったが、複座型のF-2Bは「戦闘練習機」になっている。

空自の訓練パターンが代わり、高等練習機過程が廃止され、戦闘機パイロットになった新人は全員F-2Bで、実戦同様の訓練を受ける。

これはかつてT-2が行っていた訓練を、り高度に進化させたものだが、今度はジャギュアのように攻撃機→練習機になった。

最もF-2Bは、単なる複座型であり、単座型と同じ戦闘能力を持つ。

F-2は国産機ではあるが、アメリカ製F-16を日本風に改良した機体であり、オリジナルと言うより「魔改造」に近い。

その点F-1/T-2は全くのオリジナルであり(ジャギュアを参考にしたとしても)、日本の国情に合わせた設計がなされている。

操縦席が若干狭いとされるが、日本人の体格に合わせて作られており、重い素材は海上飛行による「塩害」対策であった。

「日本の為の、日本人による、日本の飛行機」こそF-1であり、その名称に相応しい。

機数が少ないため、途中での大きな改修は行われなかったが、F-2の開発が遅れたため、80年代後半から機体の延命工事とオートパイロットの追加、バードストライク防止の風防への交換工事が全機に対して行われた。

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        ↑枠なしの風防に変ったF-1(下)とT-2の風防(ウィキペディアより)

信じられない事だが、初期のF-1にオートパイロットはついておらず、長距離飛行時もパイロットがマニュアルで飛ばしていたと言うのだから、ワ―クロードはかなり大きかったことだろう。

増して海面すれすれの飛行をマニュアルで飛ばしていたのだから、パイロットの技量の高さがいかに高いものだったか、と言う事だ。

風防についても、低空飛行の多い攻撃機ならではの対策である。






夜に再び霧雨。

気温は0時頃で15℃。それほど下がっていないのだが、雨がとても冷たく感じる。

シャツ1枚で出かけたことを、ちょっと後悔した。

ナーバスと言うか、頭より体は過敏に反応して、冷えるとすぐ体調不良になるから嫌だ。

上着を着ている人の方が多く、薄着は間違っているかも。

バスの隣席の大学生らしい女の子は、袖の短いTシャツ1枚。

いくら若くても、今日は絶対寒いと思うが、1枚持っていても出すのがめんどくさい・・と言う事だろうか。

明日は青空が見えて、梅雨の「中休み」になりそう。

でも気温は平年並みで、暑くはならない見込み。

しかし北では上空に寒気が降りて来ていて、それによってまた気温が下がるかも知れない。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

季節外れとも言える湿気寒さ、君は大丈夫ですか?

明日は解消しそうですが、油断せず服装には注意して下さい。

気温差も大きいので、体調管理には、特に気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




くれなゐは うつろふものぞ つるばみの なれにし衣に なほ若かめやも(万葉集巻十八 4109 大伴宿禰家持)




☆今日のバス

1260号車 06年式日野ブルーリボンU(KV234N1) 富谷営業所

0004号車 18年式いすゞエルガ(LV290N2) 泉営業所



0004号車は宮交初の「希望ナンバー」車で、「東京オリンピック記念」デザイン。

白地ナンバーだが、緑色の枠どりで営業ナンバーになっている。

宮交では仙台ナンバー・宮城ナンバーを通して0001〜0005を登録したが、あまり話題にならなかったためか、以降の導入車は通常ナンバーに戻されている。

今週より290エルガの新車導入の情報あり。本日は泉営業所所属の「725」号車を確認した。行き先表示板は本年導入車同様「白色LED」である。

1台だけではないと思われ、少なくとも数台は導入されたと思われる。これで宮交の290エルガは50台の大台に近付くことは間違いない。

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