CRECHANのブログ 「風の道」

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zoom RSS 鉄道ネタ・あの頃の北海道で(6月24日 晴れ 28℃)

<<   作成日時 : 2018/06/25 02:15   >>

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梅雨の中休みは随分長いようで、今日も朝から晴れて暑さが予想出来た。

仙台の最高気温は28℃で、意外と上がらずじまいだったが、それでも平年より3〜4℃高い。

比較的爽やかな暑さなのが救いで、窓を開けていれば涼しい。

真夏がこのぐらいなら最高なのだけど、海やプールに入れる気温ではないから、物足りないだろうか。

街では日曜日とあって出かけて来る人が多く、装いもすっかり夏だ。

来週はもう6月最終週。

連休が一つもない陰鬱な月は、やっと終わりだ。

来月はついに「夏休み」がやって来るし、連休も再開する。

今年から8月のお盆に祝日が増えるから、何と「来年6月」まで毎月必ず祝日があることになる。

必ず連休にはならないけれど、よく考えたら凄い事ではないか。

「やたら休みを増やすな」と言う意見はあるだろうが、気持ちの問題と言う事で。

いつも言うように、休日が増えても仕事と言う人は大勢いるし、その人々のおかげで休日を楽しめる。

代わりにサービス業の企業は、休日出勤を人に必ず「代休」を保証して頂きたい。

頂きたいと言うより、それが法律だろう。

なるほど、土日だけの月は今回だけだったか。これ、気づいている人意外と少ないのでは?

ただし来年今上天皇陛下の退位・譲位が行われると、12月23日の「天皇誕生日」がなくなる可能性が出ている。

今のところ政府は、現皇太子殿下が即位に当たって、新天皇誕生日を設定する予定ではあるが、今上天皇陛下の誕生日を、別の名称に変えて祝日とするかどうかは未定。

政府内では意見が分かれているようだ。

大変恐縮ながら、今上天皇陛下の誕生日は年末なので、あまり意識出来ない時期であるのも確か。

最も4月29日の「みどりの日」が、本来「昭和天皇誕生日」だったと覚えている国民はどのくらいいるだろうか。

もはや20代以下の若い世代に「昭和」を知る人はおらず、来年新天皇即位による元号改正が行われれば、余計生活の月日は西暦に重きが置かれてしまうだろうか。

新しい元号も、「平成」の時と違い、早ければ今年中に発表される。

これは、カレンダーや印刷物の都合を考慮すると言うもの。

ひょっとしたら来年のカレンダーは、前半が「平成30年」後半が「〇〇元年」と二つの元号が並ぶ可能性がある。

大変貴重な事で、私など、二度と見れないカレンダーになるのではないか。

日本で初めて元号が採用されたのは、645年の「大化」から。

650年から「白雉」に変わり、その後30年ほど途切れるが、686年天武天皇の時代に「朱鳥」で復活。以後元号は「令」に定められ、1332年間途切れる事なく続いている。

元号の発祥は中国大陸で、確認された元号は紀元前の「建元」まで遡る。

日本では「大化」が最初だが、大陸との行き来が盛んになった2世紀頃には、元号の文化が知られており、3〜5世紀の銅鏡などには大陸の元号が記されている。

日本で正式に使われた記録はないが、大陸との交易が盛んになるにつれ、外交事例が必要になって、大陸の元号である程度の記録としたフシがある。

元々元号とは、王朝の支配を表すものであり、6世紀に「隋」が統一するまで、大陸は元号をつけた王朝とそうでない王朝が存在する。

飛鳥時代以降の日本でも、元号の基本理念は同じだが、既に皇室の支配は揺るぎないものになっていたため、王朝交替ではなく、天皇の御代を表すものが元号となっている。

ただ飛鳥時代から奈良時代にかけては、元号イコール天皇ではなく、天皇自身の考えが優先されていた。

意外にも元号自体は形骸化されていたものの、その改元の規定は明文化されていない。

即ち何かのタイミングに合わせて改元する事が可能であった。

例えば再開された「朱鳥」年間は、686年に崩御し、皇后が持統天皇として後を継いだが改元は行われていない。

次の「大宝」も、途中で持統天皇は孫である文武天皇に譲位し、初の「上皇」と経ったが、やはり改元は行われていない。

逆に奈良時代になると、元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇は御代に改元を行っており、重祚した称徳天皇は再び改元を行っている。

重祚したとは言え、御代に4つの元号を制定したのは彼女だけである。

当時の改元は、端的に言えば「機運を変える」みたいな部分があり、749年には「天平感宝」が1年を満たず「天平勝宝」に改元されている。

この年は、築造中だった東大寺の「蘆沙那仏」すなわち大仏に使う国産の「金」が発見され、聖武天皇は娘で皇太子の阿倍内親王に譲位している。

こうした「めでたい」ことが続いたので、1年以内に改元された事例もある。

来年は何と言っても、生前譲位・退位を体験した人が「一人」もいない中で行われる。

故に政府・宮内庁は大いに戸惑っており、法制上「一回きり」と言う事にしているが、事例を作ることになり、次がないと言う保証はない。

即位に関しては法律・皇室典範を盾に取るが、天皇陛下のお気持ちが優先されるべきであり、私はいっそのこと「詔」を正式に復活すべきだと思う。

天皇に政治的な権限はないのだから、即位儀礼に関して「詔」を出すことは違法ではない。

あくまで陛下ご本人の意思を尊重するのが、国と国民の義務であるべきだろう。



鉄道ネタを少し。

先日「昔の札幌駅」の事を書いて、ふと思い出した事があった。

私が初めて北海道を訪れたのは、今から36年前、82年の夏のことである。

高校1年だった私は、入学と同時に近所の酒屋で配達のバイトを始め、旅行資金を溜めての北海道行きであった。

その後、ある意味「堰が崩れたように」北海道に惹かれて、現在まで100回近く行くことになろうとは当時は思いもよらなかった。

そろそろ北海道へ「移住」すら本気で考えている昨今だが、当時の目的は「鉄道」であった。

80年代前半の北海道は、「昭和の鉄道」その物であり、私鉄はないから道内の鉄道と言えば国鉄である。

札幌市営の地下鉄・路面電車、函館市営の路面電車を除けば全て国鉄である。

最初に訪れた82年8月は、2か月前に東北新幹線が開業しており、地元仙台の鉄道はまさに「維新」を迎えていた時である。

開業直後は大宮までの暫定開業で、11月に予定されていた再ダイヤ改正までは「プレ開業」と言えた。

本数は1時間に1本程度で、利便性はあまりなかった。

大宮〜盛岡と言う、いささか半端な区間であり、それ以外の地域の利便性に疑問があったからで、在来線の特急・急行と言った優等列車は、この時点では大半が残されていた。

新幹線筋の地域、岩手・宮城・福島までの列車は減便されたが、全廃にはならず、盛岡以遠を目指す青森行きの優等列車などは、上野始発のまま残されていた。

青函トンネルが開通していない北海道は、東北に比べると「忘れられた」様に、変化がなかった。

お盆で大混雑している連絡船の臨時深夜便で、初めて降り立った北の大地は肌寒く、まだ夜が明けきらぬ函館駅のホームには接続の1番列車が止まっていた。

時間は朝4時過ぎ。

連絡船を降りた乗客たちは、長い連絡通路とホームを走る。

「自由席」を確保するためだ。高齢者等の「バリアフリー」など、全く考慮されていない時代。

腰の曲がったお年寄りも、懸命に走っていた。

止まっていた列車は2本。どちらも札幌行きの特急「北斗」と「北海」で、80系気動車である。

「北斗」は現在と同じく、室蘭本線・千歳線経由、「北海」は倶知安・小樽経由であった。

80系は私の憧れで、身が震える思いで初体験となったが、当時の北海道は魅力的な車両が多かったのである。

80系は本州以南では既に数を減らしつつあったが、道内では完全な主力であり、室蘭〜札幌〜旭川間の電車特急「ライラック」(781系)以外は、全ての特急に80系が使われていた。

新鋭の183系は搭乗していたが、まだ少数で、数の上では80系が圧倒的であった。

国鉄時代、人口の少ない北海道の鉄道は「冷遇」されていて、冬期の特殊な環境にも関わらず、耐寒設備を持つ車輛は少なかった。

二重窓・木張りの床程度で、雪や氷に対策を施した車輛は電車の781・711系、そして新型の183系程度で、他の車輛は「なんちゃって耐寒仕様」しかなかった。

それでも鉄道は住民の「生命線」であり、道路事情も良くなかったので、鉄道はどんなに寒く雪が多くても走っていた。

さすがに厳冬期は故障などで運休や遅延はあったものの、そうした車輛しかない所で走っていたのは、当時の「国鉄マン」たちの努力の賜物であったと思う。

札幌始発の夜行列車も、私には大きな憧れで、それを見たさに行ったようなものであった。

当時北海道には、3本の定期夜行列車が運転されていた。

全て札幌基点で、稚内行き「利尻」、網走行き「大雪」、釧路行き「まりも」である。

少し前までは函館行き「すずらん」があったが、この時には季節列車に格下げされていた。

80年の石勝線開業までは、釧路行きは「狩勝」を名乗っていて、小樽発の夜行鈍行「からまつ」はファンに人気だった。

そういう意味では、道内の鉄道も僅かずつではあるが、現在に繋がる進化が始まった時期とも言えた。

夜行列車は機関車がけん引する「客車」列車で、旧型客車であった。

本州でも僅かに残っていたが、道内の夜行定期列車は全て旧型客車であり、この時には唯一の車輛があって、それを見たさに行ったようなものであった。

それは「大雪」に連結されていた、寝台車「オロハネ10」型と言う車輛である。

ファンならばわかるだろうが、興味のない人には「この人何行ってるの?」(笑)

この車両はA寝台とB寝台の「合造車」なのだ。

画像
     ↑急行大雪に連結されたオロハネ10型(70年代、ウィキペディアより)

今でこそ合造車は珍しくないが、国鉄では明確な線があり「需要はあるが、利用率が低い路線で使う」とか「準急用」など、今思えば一種の差別的な根拠で車輛の格差をつけていた。

寝台車自体は高級な車両に入るため、合造車は殆ど作られていない。

戦後では初めて「系列化」され、固定編成となった「20系客車」に合造車があった程度だ。

「ナロネ20」型と「ナロネ22」型は、どちらもA寝台車ながら、前者は「1人用個室」と「2人用個室」の合造車、後者は「1人用個室」と「開放式A寝台」が半室ずつ設けられていた。

どちらもA寝台であり、その種類が異なるだけで、厳密には合造車とは言えない。

寝台車以外では、50年代に登場した急行型電車や151系特急電車に「ビュッフェ」と普通車の合造車があったが、寝台車では「オロハネ10」が唯一であった(戦前車両を除く)。

この車両は、55年に生産が始まった「10系客車」の一員。

10系は他の系列と併結を考えない固定編成用ではなく、従来の旧型客車とカテゴリーは同じである。

何故系列化されたかと言うと、国鉄初の「軽量客車」シリーズとして生産されたからだ。

10系はスイス国鉄の軽量客車を模範として作られた系列で、寝台車の他普通車(登場当時は3等車)、グリーン車・寝台車・食堂車など、多種の車輛が生産された。

50年代、国鉄の長距離列車の大半は客車列車であったが、けん引する機関車と路線によって列車は「定数」と呼ぶ重量制限があった。

これは物理的な事ではなく、ダイヤ通りに走れる重量である。

当時高度経済成長の真っただ中にあった日本は、仕事・旅行で列車を使う人が多く、長距離列車は季節を問わず混雑していた。

それに対処するためには、客車を増結すれば済む事だが「定数」制限があるため、簡単には出来ない。

定数は客車自体の重量と、車両の定員で換算される。

もちろん全車指定席でない限り、定員を上回ることは日常茶飯事だから、列車定数はそれを見越して余裕を持たせてある。

逆に言えば、定員だけならば車両を増やせるが、余裕を持たせるためには限界があると言う事だ。

戦後の国鉄客車は、安全対策として木造車輛は原則禁止になっており、全てが鋼製だったが、標準的な車両は自重が30トン以上あった。

もし客車の軽量化が実現すれば、その分列車定数は高くなるから、増結が可能となる。

列車本数はダイヤ上限界であり、混雑を少しでも解消するには増結が必須だったのである。

国鉄はスイスに職員を送り、その構造を学ばせて、10系を開発した。

車輛は「セミモノコック構造」で、ラダ‐型のフレームに車体を載せる方式ではなく、車体自体がフレームの役目を果たすようになっている。

画像
        ↑10系寝台車・オハネ12型の下部(ウィキペディアより)

車体も初めて導入された技術で、車体の鋼板を薄くすることに成功し、台車も軽量化を目標としたホイールベースの短い物を取りつけることにした。

これにより車体の重量は30トンを切ることに成功し、他の客車で構成された10輌編成で比べると、1輌分以上が軽減されたのである。

主体のなった普通車の「ナハ10」型、改良型の「ナハ11」型は、角が丸みを帯びた大きな窓になり、製造当初からアルミサッシが採用された初めての客車であった。

車内は合板材で構成され、床もリノリウム張りで、電車のように明るく清潔だった。

冷房はまだ付く時代ではなかったが、利用者には概ね歓迎された。

寝台車はA寝台車とB寝台車が作られたが個室寝台はなく、登場時はA寝台車の「オロネ10」型と「オロハネ10」型のA寝台部分だけが冷房化されていた。

昭和30年代、冷房は特急型とA寝台車だけが認められており、急行型では電車でさえグリーン車も非冷房であったのだ。

70年代には寝台車全てとグリーン車は冷房化改造がされたが、その分重量は増えることになり、軽量客車としてのコンセプトは消えてしまっている。

10系客車が搭乗したのは55年(昭和30年)だが、最初に作られたのは普通車とグリーン車、B寝台車で、「オロハネ10」型は58年に登場している。

また全室A寝台車となった「オロネ10」型は、59年の登場で、先行した「20系」客車のA寝台車「ナロネ21」型を模倣した形式である。

上の写真では、右側がA寝台部分で、上下2段ベッドが通路を挟んで12席。左側は3段式のB寝台で、構造上出入り口は車輛の中間にある。

B寝台側の窓には乗客の姿が見えるが、こちら側は通路側である。

後発の「オロネ10」型と違い、A寝台は同じ開放式ながら、ベッド時・座席時のピッチが若干狭く、ベッド時の上段用の「のぞき窓」がない。

「オロハネ10」型は、亜幹線用として作られたため、当初はA寝台部分も非冷房であった。

画像
             ↑オロネ10型(ウィキペディアより)

公表だった10系客車だったが、最も多い輌数を誇った座席車は、意外な弱点が露呈された。

軽量化は現在のように、構造材の材質そのものを軽量化したのではなく、製造方法で軽量化した部分が多い。

その為見た目は良くとも、耐久性は「安普請」であったのである。

座席社の「ナハ10・11型」、グリーン車の「ナロ10型」(冷房化後はオロ10型)は、車体鋼板の薄さが命取りであった。

薄い鋼板は腐食が早く進み、外板と内装の間の断熱材は「アスベスト」を吹き付け、木材の板を挟んだだけであった。

その為冬期は暖房が効きにくく、乗客からの苦情が絶えなかった。

しかも数年後には金属腐食から、窓枠から「雨漏り」するようになり、隙間風が入った。

画像
             ↑緩急車ナハフ11型(ウィキペディアより)

また軽量化した台車は乗り心地が悪く、車体も狩ることもあって、振動が大きくなってしまったのである。

寝台車は代わりの車輛がないと言う事で、車体の腐食は溶接などで埋めて補修し、断熱材を増やし、窓はゴム枠をはめることで延命更新工事を行う事にしたが、座席車は採算が合わないとして70年代後半には殆どが廃車になった。

結果的には古いが、がっちりした作りの「43系」などの方が、耐久性・乗り心地は優れていたのであった。

寝台車はB寝台車の冷房化されたため、急行列車用に暫く重宝されたが、更新しても老朽化は早く、旧型客車の中では早い時期に姿を消した。

当時の夜行急行は、基本的にバラエティ豊かな車両が魅力であった。

10系自体も編成に制限がない旧型客車の一派なので、43系などと雑多な編成を組んでいた。

たいてい先頭に荷物車・郵便車が連結され、その直後にはA寝台車の「オロネ10」型、その後に数両のB寝台車「オハネ(フ)12・13型「スハネ16型」が連結され、グリーン車、普通車指定席、最後が普通車自由席であった。

乗客は数種類の車両を好みで選べたのである。

早くて普通車でも豪華な特急と違い、急行は乗客の「お財布事情」に合わせた利用が可能だった。

一番人気は普通車であり、長距離でも急行料金だけで利用できるメリットがあったし、私のような「周遊券」を利用する旅行者ならば、それだけで利用できた。

もちろん追加料金を払えば寝台車も乗れたので、鉄道ファン特に「乗りテツ」にとっては、計画段階から「どれにしようか」と悩むのである。

列車によって連結される車輛は違うが、82年当時の道内列車では、上記の全てがあったはずである。

その中で唯一「大雪」だけが、貴重な「オロハネ10」型を連結していて、「利尻」はB寝台車だけ、「マリも」は「オロネ10」型だったと記憶している。

まだ地平ホームの札幌駅に、旧型客車は良く似合っていた。

本州の夜行列車は、格下げになった20系や12・14系と言う新型車両に代わりつつあり、全車が旧型客車の急行と言うだけで、珍しく心が躍った。

そしてついに「オロハネ10」型と対面。

同時に「スハネ16」型など、寝台車も初めて見るものだった。

書いたように、合造車のため出入り口は真ん中に1か所だけ。

国鉄客車としては唯一の物であり、本物を見て「本当に真ん中にある」などと、当たり前のことを呟いた。

ちょうどお盆の時期で、「大雪」は満席であった。

10系寝台車の冷房化は後からなので、電源は床下につけたディーゼル発電機で供給する。

後の20系や24系の様な「電源車」、12・14系の「分散式電源」ではなく、各車両ごとである。

その為数両の寝台車からは、けたたましい騒音が発生しており、ホームでは人の声が聞き取りにくいほどだった。

しかし老朽化が進んでおり、車体は補修の跡だらけで波打っており、お世辞にも綺麗とは言い難い。

出入り口は「手動」であり、車内は綺麗に保たれてはいたが、古びていた。

B寝台車のベッド幅はたった52センチしかなく、同じ幅の20系より狭く感じる。

3段式ベッドは2組のセミコンパートメント式で、混雑時は見知らぬ乗客同士が幅2メートル程のコンパートメントに6人が押しこまれることになる。

天井には1メートル程の巨大はファンデリアがあり、そこから冷房が出てくる。

非冷房時代の名残で、当時は「扇風機」の役割を果たしていたものだ。

ベッドの照明は黄色い豆ランプだけで、読書などは不可能。

20系は蛍光灯だったし、通路には折り畳みのいすが付いていたが、10系にはない。

乗客は狭くて暗いベッドにひきこもるか、通路で立っているしかないのだ。

今ならば、プライバシーと言う点で、完全に「失格」であろう。

女性など、着替えて寝ることは不可能だろう。

当時は男女の区別はなかったし、女性でもベッドのカーテンを引いて着替えると言う「猛者」も珍しくなかった。

画像
     ↑B寝台車のスハネ16型。こちら側が寝台部分(ウィキペディアより)

実は初めての時「オロハネ10」型の乗車は叶わなかった。

旅程と予算の都合で、札幌以遠に行くことは出来ず、せめてもと駅で眺めるのが精いっぱい。

ようやく体験乗車できたのは、翌年の冬休みのことだったが、直前に「オロハネ10」型は引退してしまった。

と言うより夏の時点で廃車になることは分かっていたので、見ることだけでも願ったのである。

二度目の時も10系寝台車の全面廃車は目前で、ダイヤ改正で道内の夜行急行は全て14系に置きかえられている。

私は稚内行き「利尻」のB寝台車に乗ったが、これが最初で最後の旧型客車による寝台車体験であった。

それはもう有頂天になる思いだったが、実際には床下のディーゼル発電機がとにかくうるさく、幸い空いていてコンパートメントには他に2人が乗り合わせただけだったが、窓枠なのか、とにかく一晩中どこかでガチャガチャ音がして、ほとんど眠れなかった。

廃車直前だったので、車両自体既に限界だったのだろうか。

揺れも大きく、早朝稚内に降り立ったときはふらふらだったと記憶している。

だが旅情は大きかった。正直汚く古い客車に一晩揺られ、降り立ったのは最北端の街。

稚内は吹雪で、演歌に出て来そうな風景だったが、とても歩き回れる天気にはなく、早朝営業の食堂で食事をして、2時間後のディーゼル急行で引き返した。

10系は試行錯誤感が強く、結果的には成功とは言えない系列であった。

だが軽量構造は、その後の鉄道車両の模範となり、現在までその理念は受け継がれている。

正にエポックメイキングな車両であったのである。

当時の北海道は、言ったようにどこか遅れている雰囲気があり、それは懐かしさを伴っていた。

あれから36年、今や札幌圏では新型の電車が行き交い、稚内駅では特急列車が発着している。

宗谷本線は、長らく「特急が走らない本線」として有名で、急行が最優等列車。

冷房車はグリーン車と寝台車だけで、転換シート車輛は1輌もなかった。

「利尻」は寝台車・グリーン車も連結しており、昼行の「宗谷」「天北」などのディーゼル急行より豪華な編成であった。


画像
     ↑旧型客車のグリーン車・スロ62型(急行越前、ウィキペディアより)



日中は暑かったけれど、夜は涼しいのが救い。

これが真夏と違うところか。

日曜はバスが早く終わるので、少し早めに帰って来た。

家の中は、閉め切っているとやはり暑くなる。

窓を開ければ良いのだが、明け方まで起きている私だから、近所迷惑になると困るので扇風機で凌ぐ。

肩と背中の痛みはいくらか良くなった気がするが、すっかり良くなった訳ではない。

帰宅すると、なぜか必ず痛くなる。

身体を動かしたからか、家に帰って緊張がほぐれるからか、とにかく傷みが出始め、薬を飲まざるを得ない。

今月も生活費は苦しく、何とか経済したつもりだけど、やはり足りず、さりとて収入を増やす手立てもない。

来週は殆ど「文無し」で過ごさなくては・・・深く考えないようにしているのだけど。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暑さは大丈夫ですか?

今年は暑すぎ・寒すぎと、極端な気候ばかりです。

君が体調を崩していないか、ちょっと心配しています。

君は暑さは苦手だったでしょうか、それとも平気な方でしたか?

夏休みの計画も、そろそろ立てる頃でしょうか。

残念ながら私には、季節を楽しむ資格はなさそうですが、君は良い夏を迎えて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。






常人の 恋ふといふよりは 余りにて 吾は死ぬべく なりにたらずや(万葉集巻十八 4080 大伴坂上郎女)




☆今日のバス

306号車 99年式三菱ふそうニューエアロスター(MP717M) 野村車庫(元名古屋市交通局)



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