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zoom RSS 古代史探偵A・葛城氏の源(7月12日 曇り時々晴れ)

<<   作成日時 : 2018/07/13 02:02   >>

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梅雨は東北だけになったが、それらしい空模様が続く。

今日は少し気温が下がったものの、決して涼しい訳ではない。

日中少し風が吹いていたのでいくらか凌ぎやすかったが、湿度が高く快適とは言い難い。

気象台も予想に苦しんでいるようで、しばらく暑くなりそうではあるが、イコール梅雨明けとは言い切れないようだ。

太平洋高気圧の勢力が安定せず、西日本は覆われるものの、東北・北海道まではなかなか広がらない見込み。

そろそろ梅雨明けの平年並み迎えるが、今のところ微妙と言うより、それまでの梅雨明けはないようだ。

間もなく高校生以下は夏休みに入るはずだが、それまで梅雨明けになるかどうか。

西日本豪雨の死者数はついに200人を越え、行方不明者も未だ60人近くいる。

最悪250人以上になる可能性があり、大雨被害としては未曽有の大災害の様相を呈して来た。

比較するものではないけれど、大地震でもこれだけの犠牲者が出るのは稀であり、台風でもない単なる大雨である。

いかに今回の大雨が、想像を遥かに超えたものか、改めて背筋が寒くなる思いだ。

瀬戸内には農業用の溜め池が多いと言うが、今回の大雨でキャパシティを越え、水が溢れたり池の淵が堪えきれずに「決壊」する事例も出始めている。

被災地には、全国から派遣された警察・消防・自衛隊が行方不明者捜索や復旧作業を行っているが、晴れた猛暑の最中突然洪水の警報が出ると言う。

溜め池や地盤の緩んだ川岸が、今になって損壊しているのだ。

その都度作業は中止、待避しなければならず、予定通りに進まないと言う。

とにかく行方不明者の捜索と発見が最優先だが、こうした状況から被災者はもちろん、作業の人々には焦りと苛立ちが続く。

何をどうしたら良いかわからない…そういう状況はよく理解出来る。

プロの消防士や自衛官でさえも、あまりの状況に試行錯誤するしかないのだから、想像に絶する被害なのだ。

現地ではしばらくまとまった雨はなさそうだが、夕立の可能性はあり、ちょっとした雨が二次災害に繋がる不安がありそうだ。

災害の少ない土地柄もあって、被災者・行政共々大きな戸惑いがあるに違いない。


傘を持たずに出かけたのだが、夕方から夜にかけて小雨ではあったが雨が降った。

ずぶ濡れになるほどではなかったが、かといって邪魔な傘を持ち歩くほどでもない。

折り畳み傘を持っていない私には、今日のような天気は苦痛だ。

いっそのことずっと降っていれば、多少邪魔でも傘は必須だ。だが今日のように半端な小雨では、ビニ傘は何故かやたらと邪魔で重く感じてしまう。

「火事場の馬鹿力」の真逆現象なのだろうか、使わない傘はやたら重く、使うときはそれほど気にならないものだ。

バスや店のエアコンが寒く感じるが、外を歩く分にはさほど涼しさは感じない。

湿度が高いのだろう、家の中は閉め切っている分蒸し暑く、エアコンを使う。

最近体調がイマイチのせいか、暑さはめまいなどを感じるようになった。

電気代がかかるけれど、暑さで体調不良にも成りたくない訳で。

寒い時は厚着して我慢できるけれど、暑さは限界点が低い。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暑さは大丈夫ですか?

エアコンの冷えは気になりませんか?

苦しい暑さですが、ポジティブに考えれば、例え残暑があったとしても、あと1カ月半が良い所。

いつしか7月も半分が過ぎようとしており、1カ月後にはお盆・初秋を迎えるのです。

インパクトが強い夏ですが、実は短い。

人は知らずに季節を通り過ぎています。

最も暑いのは今後2週間程度でしょう。

我慢は禁物ですから、涼しく楽しく夏を迎えて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



萬世(よろずよ)に 照べき月も 雲隠り 苦しきものぞ 逢はむと思へど(万葉集巻十 2025 秋雑歌)



☆今日のバス

395号車 00年式三菱ふそうニューエアロスター(MP717M) 泉営業所(元名古屋市交通局)







◎古代史探偵A(葛城氏の源)



葛城氏は奈良県北西部、葛城山系の麓に拠点をおいた古代豪族である。

氏族としての存在は確かなものの、本家は5世紀末に滅亡したため、その素性は未だ不明の「謎の豪族」でもある。

5世紀の日本には、まだ文字文化が浸透しておらず、当時の様子を知るのは限られており、「日本書紀」を含む史書と遺跡から窺い知るのみである。

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          ↑明日香村から望む葛城山(奥)(筆者撮影)


しかし「日本書紀」が編纂されたのは飛鳥時代末から奈良時代にかけての事で、葛城氏本家が滅亡して200年も経ってからの事である。

だが遺跡の様子から、葛城氏のルーツは有史以前、少なくとも弥生時代末期まで遡る事は確かで、奈良県御所市にある「鴨都波遺跡」では、弥生時代末期から5世紀と数百年に渡って同じ場所に集落が存在した事がわかっている。

恐らくは葛城氏及びその始祖と考えられる「鴨氏」の本拠地であり、古代史において葛城氏と鴨氏は、名前が確認出来る最も古い氏族である。

葛城山系の遺跡は、御所市から葛城市、香芝市にかけて山麓に沿うように点在しており、同族系が一定のコミュニティーを形成していた。

作家で古代史研究家の故直木孝次郎氏は、奈良盆地東部に興った「ヤマト政権」より先に、葛城山系を中心とした「葛城王朝」が存在した、と言う説を打ち立てたが、王朝や国家をどう定義するかによるため、単純に「葛城王朝説」を支持する事は出来ない。

概念以上に、葛城氏が政治的な支配圏を行使した気配が一切見られないからである。

「日本書紀」だけでなく、大陸側の史料などを照らし合わせると、葛城氏が氏族として姿を現すのは、ヤマト政権2代天皇「綏清天皇」が葛城氏の子女を妃に迎えた事から始まるが、明らかな豪族として名がでるのは4世紀の「葛城臣襲津彦」からである。

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       ↑2代綏清天皇「高丘宮」伝承地(御所市森脇地区、筆者撮影)

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            ↑「高丘宮伝承地」付近の風景(筆者撮影)


紀記などによれば、襲津彦は武内宿禰の子であるとする。

武内宿禰は歴史学上「非実在」の人物とされる。それは紀記において、エピソードが非現実的と言うだけの事であり、明確な論証の下否定されているのではない。

「古事記」での宿禰は、12代景行天皇の家臣として登場し、天皇の子小碓皇子の幼なじみだとする。

小碓皇子は後の「ヤマトタケル」で、宿禰はその後16代仁徳天皇の条まで登場し続けている。

紀記の掲載年間は「春秋音」換算を、奈良時代に混乱の上そのまま掲載しており、それが非現実的な要素の原因になっている。

紀記通りに読むと、武内宿禰は少なくとも250年も存在した事になってしまい、確かに非現実的である。

だが単純に切り捨てたのでは、何故一目でウソとわかる事を史書に掲載したのか?と言う疑問が残る。

無責任な研究者は「皇室の史書だから、支配者としての系譜を正当化するため」と、最もらしい説明をするが、もちろん根拠は全くない。

確かに非現実的な話ではあるが、いつも言うように「史実に基づいたフィクション」であり、編纂者自身有り得ない話なのは知っていたはずである。

私が思うに、全く存在しない人物を何故細かいエピソードに仕立て上げたのか、が理解不能だし、単なる正当化ならばもっと単純かつ強引な話にすれば良い事だ。

私が思うに、武内宿禰は実在した人物だが「複数」存在したと考える。

時代は下るが、戦国時代の家臣は代々受け継がれ、名前の「襲名」する事があった。

武内宿禰は天皇に最も近い「側近」として描かれている事から、親から子へ名前を受け継がれたと考える。

年数を換算すると、景行天皇は4世紀前半、仁徳天皇は4世紀末から5世紀始めの人物と見られるから、武内宿禰が存在したのは100年前後と見る。

するとだいたい3〜4人の人生時代に相当するから、襲名した武内宿禰もそのくらいいたと思われる。

話が逸れてしまったが、葛城氏の始祖の襲津彦は武内宿禰の子であり、紀記を見ると4世紀後半以降の人物と見られるので、父の武内宿禰は3代目以降の人だろう。

尚武内宿禰自身は、応仁天皇以降見えなくなり、天皇の后が襲津彦の娘・磐乃媛である事から、父親は最後の武内宿禰であろう。

葛城山付近には、現在も武内もしくは竹内の地名が残っており、宿禰自身が葛城出身である事は間違いない。

紀では、襲津彦は神功皇后の朝鮮半島進出「三韓征伐」時に、日本軍の「将軍」として派遣されたと見えるが、エピソードでは現地でかなり勝手な振る舞いをしており、「将軍」としての使命を果たしていない。しかも正確には派遣軍の責任者としての指名はなされておらず、別の理由で派遣軍に加わったと見るべきだ。

話を総合すると、襲津彦は勝手に軍を動かしたり、百済に攻撃を仕掛けたり、さらには帰還命令を無視して、3年以上も音信不通になり、ようやく強制送還されるなど、およそ将軍とは思えないエピソードが並ぶ。

しかし全てが半島進出に関わるものであり、葛城氏が半島に強いコネクションを持っていた事が窺えるのである。

奈良県御所市室にある「室宮山古墳」は、全長238メートルにも及ぶ大型の前方後円墳で、5世紀の築造と見られている。

明治時代の調査で前方部分で粘土槨に覆われた木棺が発見され、勾玉やガラスなどが複数見つかり史跡に指定された。

その後後円部では、全長5,5メートルの石室が確認され、約2.8メートルの石棺が確認されている。

其の他「家型埴輪」や朝鮮式土器が発掘され、被葬者が朝鮮半島に深く関わりを持ち、かつこの地域の実力者であることを裏付ける。

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             ↑史跡室宮山古墳(ウィキペディアより)


かつて武内宿禰の墳墓であるとも伝わっていたが、出土品や築造時期から襲津彦の墳墓である可能性が高い。

葛城山麓に点在する遺跡には、金属工房跡と思われる遺構がいくつか見られ、金・銀・鉄の精錬跡が見られる。

前回書いたように、当時の日本ではいずれも産出せず、原料は「輸入」していたことは確実である。

紀記には襲津彦が戦役の捕虜として、多数の百済人・新羅人・高句麗人を日本に連行して来たと記すが、そうではなく「移住者」を募っていたのであろう。

日本になかった数々の工芸技術を持つ「職人集団」と、その家族を招聘し、葛城氏は日本で先進的な技術と私財を持つ豪族にのし上がったのであった。

遺跡からは銀の製錬で出た「屑」の塊が発見されているが、これは我が国最古の精錬後の銀である。

銀製品はそれ以前もあっただろうが、輸入品で、国内で精錬したと言う事は、そこから器や装飾品を製造した証拠であり,その技術を持ちこんだのは大陸系の人々であろう。

だからこそ、奈良盆地で発足した神武天皇の「新ヤマト政権」は葛城氏の技術が欲しくて、子女を入内させることで「外戚」にしたのである。

同時にヤマト政権側と葛城氏の間に、政治的な争いが起きたと言う記録はなく、遺跡などからも2〜5世紀に葛城周辺で争いがあったと思われる跡は一切ない。

だとするとヤマト政権・皇室と葛城氏の結託は、穏やかに行われたと言う事であり、「葛城王朝」説は成り立たない。

話し合いによる統合でも、事実であれば紀記に残るはずであり、それが見られないと言う事は葛城氏に政治色はなかったと言わざるを得ない。

襲津彦の大陸進出話でも、彼に政治的なカリスマ性や指導力は認められず、葛城氏が「経済豪族」であったことを裏付けるものである。

恐らく言葉を含め、襲津彦とその部下を派遣軍に伴わせることは、大きな利用価値があったからであろう。

葛城氏は奈良盆地の南西部、五条市から和歌山に抜ける吉野川沿いの交通路を確保しており、大阪湾へ出る手段も保有していた。

これは半島から人や物資を、独自のルートによる流通ルートを確保していたのである。

これらの事については、ほぼ確実と考えられるが、私はふと気になった事がある。

襲津彦は葛城氏を大きくした首長であり、始祖と言うより葛城氏としての立場を盤石にした人物であって、氏族自体はもう少し古くから存在していたと考えられるが、独自の経済活動とは一体どのようなモノだったのであろうか・

お分かりかと思うが、5世紀頃と仮定すると、当時日本に貨幣制度は存在しない。

制度は奈良時代のことであり、その時ですら浸透には時間がかかっており、それまでの経済は原始的な「物々交換」である。

大陸においても、葛城氏が鉱物資源を「輸入」したのであれば、どうやって入手したのか、と言う単純な疑問にぶち当たる。

7世紀ごろになると日本は「国家」として、半島に拠点を置くようになるが、これは政治的な「同盟」を結んだからであり、いざ向こうが戦火に見舞われた際には軍事的な援助を行う事が「見返り」であった。

しかし葛城氏が、多数の兵員などを送って軍事的な支援の見返りに資源や技術を輸入したと言う証拠は見られない。

飛鳥時代以降であれば、朝廷は国民から租税として農産物や各地の特産物を徴収して「国庫」としていて、民間でも布などが「貨幣」の代わりに使われていた。

高級な絹はそれ自体に価値があり、大陸でも日本製の絹は評価が高かったと言うが、5世紀に絹が流通していたと言う確証はない。

絹織物自体はあったと思われるが、貨幣的な扱いを出来るほどの大量生産が出来たかどうかは不明であり、葛城氏が全国から集めたと言う記録や跡は見つかっていない。

だた史料を手繰って行くと、5世紀の葛城氏はヤマトの本家を中心に各地に関係氏族があったことが分かり、皇室の傍系王家の「日下王家」も、葛城氏と深い関係にあったことが分かっている。

だとすれば、葛城氏は各地の関係氏族から「貨幣」の代わりとなり、半島側が欲しがる物を「輸出」して、見返りに鉱物資源などを「輸入」していたことになるのではないか。

だがそれを確証にする遺構や出土品、半島側に記録は何故かない。

「倭国」が何度も渡海して半島に侵攻したのは、「好太王碑」によっても史実であり、他の記録でも確実である。

進出したのは明らかに半島の権益が欲しかったからであり、それを主導したのが葛城氏だった。

神功皇后の「三韓征伐」は4世紀後半の事と思われ、その後369年に百済王が倭国に対し「七支刀」を筆頭に宝物を送ったとあり、七支刀は奈良県天理市にある石上神宮に祀られている。

恐らくは高句麗に攻めた際に、百済が日本に対し宝物を送ることで同盟関係を結んだと見られる。

それは百済地域の鉱物資源や技術も、日本にもたらすと言う約束であっただろうが、葛城氏は今でいう「民間」であり、国同士の同盟関係による交易はなりたたない。

半島側の記録には日本が何度も侵攻したとは見えるが、交易で産物をもたらしたという記事は見えないのである。

ならば何故半島側は、葛城氏に見返りを要求する事なく「輸出」したのか、と言うところに、古代史研究は未だ及んでいない。

即ち襲津彦以前の葛城氏は、「何らか」の手段で半島と交易関係を確立し、自ら隆盛を極めたことはん事実なのだが、それが何であったのかはわからないのである。

日本にはない鉱物資源や、道具を作る職人を移住させても、それだけで半島側が無償で原料を提供する事はあるまい。

葛城氏は「道路」を作る技術も持っており、それは間違いなく物流を目的としたものである。

前回も書いたように、御所市の国道24号線「風の森峠」のすぐ近くでは、「バラス」を敷いた5世紀の「舗装道路」が130メートルに渡って発見されている。

これは重量物もしくは大量の物資を流通させる必要性があったからに他ならず、未だ確認されていない「車輪」を使って運送していた可能性もある。

いずれにせよ、葛城氏が「経済豪族」として大きくなり、ヤマト政権・皇室の側近になりえたのは事実である。

だがその源が、不明なのである。

それは「お金」と言う概念から抜け出せない現代人のクセであるかも知れないが、彼らを大きくしたものは一体何だったのか、と言う実に単純な疑問を持つに至るのだ。

葛城氏自身は、葛城山系から勢力を敢えて広げなかったのも不思議である。

先に書いたように、全国に関係氏族がいたからであろうが、本来ならば政治的野望が芽生えてもおかしくない。

少なくとも神武天皇の「新ヤマト政権」は、武力と言う点では葛城氏より低い力しかなかったはずである。

だからこそ次女の婚姻関係を持たせて、皇室の「親族」に取り込んだ。

同時に葛城氏もそれを拒まなかったという事は、あくまで葛城と言う狭い地域から出るつもりはなかった豪族だった証である。

皇室と結託したのも、後世の蘇我氏や藤原氏のような権力が欲しかったのではなく、日本の将来を皇室に見いだして「協力」したかったのであろう。

襲津彦の逸話も、よく読んでみると政治的な意思は見られない。

やりたい放題に見えるが、決して「日本の代表」と言う意識が見られず、独断専行を朝廷から諌められ、むしろ身を隠したなどと書かれている。

紀記においては、天皇に従順でなかった・・と言う事を示したいと思われるが、氏族自体に野望はなかったであろう。

葛城氏のおかげで、ヤマト政権の支配が全国に拡大したのは事実である。

同時に支配が盤石になると、それを「謀反」の引き金になるのではないか・・と訝しがられるようになる。

5世紀になると葛城氏の隆盛は最高潮に達するが、21代雄略天皇によって葛城氏は歴史から姿を消す。

首長であった「葛城大臣円」は、20代安康天皇の暗殺犯「眉輪王」を匿い、追って来た天皇の実弟ワカタケル皇子、すなわち雄略天皇に差出を命じられるが、拒否。

それを理由に「謀反」とされ、雄略の異母兄黒彦皇子・眉輪王とともに円大臣は殺害された。

ここに葛城氏本家は「滅亡」する。

雄略は即位を絶対的な物にするため、最大の豪族であり皇室の親戚である葛城氏を「邪魔者」と見做して排除しようとした。

恐らく葛城氏の所領は、皇室の物としたはずである。

皇位継承権を持つすべての兄弟を抹殺する事,それに犯行出来る実力を持つ葛城氏の力を排除する事で、自分の即位を確かなものにした。

もちろん氏族の全員が抹殺されたと言う記録はなく、関係氏族も然りで、あくまで「本家」がターゲットであった。

雄略にしてみれば、朝廷は既に盤石であり「国家」的支配は可能になっており、葛城氏はいらないと判断したのであろう。

雄略も即位後、半島に進出しているが、具体的な功績は不明である。

これは葛城氏を通さず「ヤマト政権」として、半島に影響力を及ぼそうと考えたからであろう。

同時に関係氏族は、何らかの条件をつけて皇室・朝廷に従属させたものと思われる。

故に半島進出が可能だったし、葛城氏が築いた経済流通も朝廷に吸収したのである。

それによって「同盟関係」と言う、新たな「見返り」を作ることになるのだが、葛城氏がどうしてあそこまで先進的な文化を導入する事が出来たのか、なぜそこまで考えついたのか、それはまだ暗闇の中にある。

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