CRECHANのブログ 「風の道」

アクセスカウンタ

zoom RSS 古代史探偵A・葛木御歳神社の謎(7月6日 曇り時々雨 20℃)

<<   作成日時 : 2018/07/07 07:41   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

全国が災害に見舞われている。

大雨はなおも続き、8府県に「特別災害情報」が出されている。

観測史上初めてのことで、各地で被害が発生している。

死者や不明者も出て、今後も雨が続く見込み。

特に九州北部・中国・近畿で激しい雨が続いており、川の氾濫。土砂崩れが相次いでいる。

観光地で有名な京都市の鴨川も、氾濫の危険水位に達しており、護岸が崩れたところもあると言う。

渡月橋も危険水位のため通行止めになり、広島県や岡山県では道路や鉄道が寸断されつつある。

台風でもないのに、こんなに雨が降り続き被害が出ると言うのは聞いたことがない。

気象庁では異例の記者会見を何度も開いて、当該地域の人々に厳重な警戒を呼び掛けている。

仙台は1日中雨が降ったり止んだりで、気温もグッと低くなった。

雨は強くないけれど、霧雨と本降りが交互に降るような感じだ。

ここしばらく真夏のような暑さが続いていたので、肌寒さを感じてしまうほど。

雨自体が冷たく感じる。

街では服装が逆戻りしたようで、半袖姿の人は殆ど見かけない。

若い女性が何人か、気を吐いたように半袖のまま歩いていたが、今日はどう見ても「やせ我慢」だろう。

各地の状況をテレビで見たが、道路は川の様になっていて、斜面では泥水が滝のように流れ込んでいた。

私自身、実際にこのような光景を目にしたのは二度あるかないかで、さぞかし恐怖感に捉われることだろうと思う。

流れが激しく、泥流だからどこがどこだかわからない。

足もとを救われれば、命に関わる。

大雨は少なくとも日曜日まで降り続く見込みで、始末の悪い事に同じ場所で続くと言う。

加えて日本の遥か南では「台風8号」が発生し、来週には接近する可能性が出て来た。

そうなると再び梅雨前線が刺激されることになり、今大雨で被害が出ている地域では二重・三重の被害になりかねない。

避難対象地域の人はもちろん、そうでない地域でも今後そうなる可能性が高いので充分注意して欲しいのと、これ以上被害が増えない事を祈るのみだ。


週末金曜日。街は雨ながら人出が多かった。

夕方の泉中央の店は、買い物客で溢れており、歩くのも困難な程。

少し時間があったので、歩いて10分ほどのファーストフード店に行って、久しぶりにハンバーガーを食べた。

こちらも雨にもかかわらず、お客さんで一杯であった。

皆雨でもたくましい行動力。

高校生など、朝雨が降っていなかったからなのか、傘を指さずにあるいて行く。

中には半袖制服姿の女子もいて、風邪を引かないか心配になってしまうが、キャアキャア良いながら走って行った。

途中の道端の街路樹で、傘を指しながらスマホで写真を取る男子高校生がいた。

流行の「インスタ映え」?

でも薄暗く、街路樹に接近して撮影している。

何をしているのか、と失礼ながら覗きこむと、なんと「セミ」。しかも2匹。

「さっき底の電柱にいるのを見つけたんです。でもかわいそうに思えて、捕まえて木に移してあげたんです。」

こんなに早い時期にセミなんて、と思うが、連日の暑さででてきたのだろうか。

ところが雨で肌寒くて「固まって」いたらしい。

7〜8センチはある大きなセミで、彼によれば色が薄いので羽化して間もないのでは?とのこと。

へえ、昆虫好きの高校生ってまだいるんだ・・と妙に感心してしまうとともに、彼の優しさも偉いなと思ったのでした。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雨は大丈夫でしたか?

身体を冷やしませんでしたか?

明日明後日も、雨が降りやすくなりそうです。

外では気をつけるとともに、体調管理にも気をつけて下さい。

薄着などで身体を冷やさないようにして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



ほととぎす 鳴く峯の上の 卯の花の うきことあれや 君が来まさぬ(万葉集巻八 1501 小治田朝臣廣耳)



☆今日のバス

637号車 17年式いすゞエルガ(LV290N1) 泉営業所








◎古代史探偵A(葛木御歳神社の謎)



奈良市から南に車で約1時間。

奈良盆地南西部に御所市がある。

難読地名の一つで「ごせ」と読む。

奈良県と大阪府を分け隔てる葛城山系の麓に位置し、古代豪族「葛城氏」の本拠地であった。

葛城山系は金剛山と葛城山から成る山系だが、その裾野には4〜5世紀の遺跡が多数確認されている。

奈良盆地を南北に貫く国道24号線沿い、御所市の辺りは盆地の南西端に位置し、「風の森」峠を越えると吉野川に沿うようになって紀の国・和歌山県に至る。

「風の森峠」は小さな峠だが、奈良盆地側は葛城山系の斜面になっていて、急な坂道が長く続いている。

「謎の豪族」と言われる葛城氏は、我が国の歴史上最も古くから登場する豪族の一つで、その実態の多くは謎に包まれている。

最古の歴史書「日本書紀」に、葛城氏は度々登場するが、いつの間にか登場して突然滅亡した様な経緯を持つ。

紀はヤマト政権・皇室の歴史書であり、葛城氏は皇族の血統ではないため、詳細が載らなくても当然とも言えるが、少なくとも5世紀までは皇室と深く関わっていた氏族である。

葛城氏とは「総称」であり、葛城山系の麓を支配していた氏族である。

始祖は武内宿禰の孫もしくはひ孫とされる「襲津彦」とされるが、その全貌は不明である。

5世紀以前のこの地域では「鴨氏」が支配していたと思われるが、この氏族の詳細はもっと不明であり、出自はわからない。

風の森峠から、葛城山方向約1.5キロに「高鴨神社」が鎮座し、全国の「賀茂神社」の総社になっている。

伝承は「神代」まで遡るため、その真偽のほどは明らかではないが、5世紀以前葛城山系は「神奈備」として信仰の対象になっていた。

現在葛城山系と言うと標高1,125メートルの金剛山と、959メートルの葛城山を指す。

だがその北方、竹内峠を挟んで二上山があり、鴨氏・葛城氏はここまでをテリトリーとしていたことはほぼ確実である。

葛城山系は古い火山に属し、二上山では火山活動や地殻変動の時代に形成されたと思われる鉱物資源があった。

黒光りする「サヌカイト」(黒曜石)の他、かつては水銀や辰砂が採れたと言う記録があり、古代において貴重な鉱物資源の宝庫であった。

国道24号線の風の森峠から少し西に入った農地の中に、5世紀のものと思われる道路の遺構が確認され、バラスを敷いた「舗装道路」であることがわかった。

即ち5世紀に峠は「交通路」として開拓されていた証であり、道は吉野川を下って紀伊水道に至るのである。

葛城山系の遺跡は、南北数キロに渡って点在しており、住居跡と思われる村落らしきものと、何らかの作業場らしき跡が綺麗に分かれて存在していた。

作業場と思われる遺構からは、金・銀・鉄・ガラスと言った工業加工の跡が確認され、金属を溶かす炉の後も確認されている。

当時の日本に金・銀・鉄は産出しておらず(鉄は現在に至るまで産出していない)、加工したと言う事は原料が全て「輸入品」だったことが分かる。

葛城氏は武力による支配ではなく、「経済豪族」として独自の発展を遂げた氏族であった。

始祖の襲津彦は、4世紀後半の人物で、紀では神功皇后の朝鮮半島進出の際「将軍」として派遣されたと見えるが、軍属と言うより葛城氏として半島に太いパイプを持っていたから派遣されたと思われる。

御所市宮前には「室宮前古墳」と言う、大型の前方後円墳があるが、これが襲津彦の墳墓と考えられる。

10年ほど前に台風被害があり、墳丘の樹木が暴風で倒れた時に石室の調査が行われ、複数の遺品の中に半島製もしくは強い影響を受けた土器が発見された。

これは被葬者が、半島と強い繋がりを持っていたことが窺われ、その大きさからも襲津彦の墳墓でほぼ間違いないとみる。

即ち襲津彦の時代には、既に海外と交易を持つ先進的な氏族であったことが分かるのである。

それに目を付けたのが初期のヤマト政権であり、紀によれば2代天皇である綏清天皇以降、妃に葛城氏の女性が入内していることが分かる。

最終的には4世紀末、襲津彦の娘である磐乃媛が16代仁徳天皇の「皇后」として最高位まで上りつめていることから、葛城氏は最初の皇室の正式な「外戚」であった。

5世紀には既にここまで盤石な立場を築いていたのだから、それ以前から皇室にとって「全国支配」に欠かせない氏族と言う認識があって当然だったのである。

2世紀末か3世紀初めころ、三輪山の麓を「聖域」として「原ヤマト政権」を興した王ニギハヤヒは、統一の野望を次代に託した。

彼は武力による統一・支配ではなく、あくまで政治的な支配拡大を目論んだ人であった。

その為には国民の不満を噴出させず、「穏やか」な統一が望ましい。

当時一足先に「国」文化が発生していた九州では、小国が割拠していた。

言わば「群雄割拠」の状態で、幾度もお互いが戦火を交えては和平・・を繰り返していた。

和平時は「連合」を組み、大陸との交易を行っていたが、このころには各国の国力は落ち始めていた。

過去の戦火で、どの国も疲弊し、恐らくは自然災害なども加わったのであろう。

「九州連合」は、弱体化し始めていたのであった。

ニギハヤヒはこれをチャンスと捉えたが、武力で抑えるには「原ヤマト政権」は経験不足で、何より人口も少なく、兵力は弱体化しているとは言え、九州連合には太刀打ちできない可能性が高かった。

そこでニギハヤヒは、地理的にも「九州連合」の中心であった北九州痴呆と距離を置いていた「日向国」に目を付け、王ウガヤフキアエズに同盟関係を持ちかけた。

再び群雄割拠になることを嫌ったウガヤフキアエズは同盟に応じ、ニギハヤヒの申し出の通り自分の末子であるイワレヒコを原ヤマト政権に送ることにした。

同盟の条件として、招聘したイワレヒコをニギハヤヒの「娘婿」として政権を譲ると言う事であった。

それによって日向国は原ヤマト政権に組みする事になり、これまで小さな「東国」の一つに過ぎなかった原ヤマト政権が九州南部に突如出現する事になった。

山陰にはニギハヤヒと故郷である出雲王国があり、弱体化していた九州連合は東西から原ヤマト政権に挟まれる結果になったのであった。

原ヤマト政権に入ったイワレヒコは、ニギハヤヒの末子で娘であるイスケ媛と結婚し、兄のウマシマジ・タカクラジを後見人として王位を継ぐことになる。

初代天皇「神武天皇」の誕生である。

神武天皇は「創作上の人物」と決め付けられ、その人物像を分析する事が現在まで無視され続けられていることは、日本の歴史学の大いなる「損失」である。

「神話」と言うだけで、論証を一切することなく「創造」と決めつける、日本の古代史学の最も悪しき習慣であろう。

しかしながら「日本書紀」のほかに、「古事記」「先代旧事本紀」などを照らし合わせ、奈良県の伝承地を訪ねて見ると、様々な伝承が史料と微妙にかち合ってくることが多いのはどういうことだろうか。

つまり「創造」などではなく、神武天皇は実在した人物であることが浮かび上がってくるとしか言いようがないのである。

神武天皇は「即位」にあたって、「柏原宮」にて即位したと紀記に見える。

現在奈良県橿原市にある「橿原神宮」が、その跡地と見做されて祀られているが、これは明治政府によって治定されたものであり、遺跡などが発見されたわけではない。

紀記には「畝傍山の麓」と見えるに過ぎず、根拠は全くないのである。

ところが畝傍山から南西に2キロほど行った、御所市に「柏原」と言う地名が現在も残されており、土地の伝承に「柏原宮」があったと言う。

現在柏原地区には「神武天皇社」と言う、珍しい神社が祀られており、土地の人々は代々守って来たと言われている。

事実「橿原神宮」遷宮の時、明治政府はこの柏原地区を調査しに来たと言う。

だが代々受け継いできた土地と神社、伝承を守るため、政府にその伝承は「嘘」だと言って候補から除外された。

しかし維新政府が調査した、と言う事は、当時の皇室に「柏原」の伝承があった・・と言う事でもある。

あくまで推測だが、そうした伝承を皇室及び宮内庁が知っていた可能性は充分にあると思う。

とにかく「神武天皇社」と地域は、昔ながらの静かな場所として現在まで残ったのである。

畝傍山から離れ過ぎている、という意見も出ようが、充分近い距離と言って差し支えないし、説明とすればあながち間違ってもいない場所である。

私も実際訪れて見たが、近くには神武天皇「麗しき秋津島」と歌を詠んだと言われる国見山があり、秋津と言う地名も残っている。

またすぐ隣には「本間」と言う住所がある。神代にこの国を「秀真」(ほつま、真秀いでる)と呼んだが、「本間」は転訛したものと思われる。

地名から予測するに、即位した「柏原宮」とはこの柏原地区である、と私は考える。

今では大した距離ではないが、なぜ神武天皇は三輪山を離れてこの場所に即位したのか。

既に先進的文化を保有していた葛城氏に接近したかったからであろう。

そして子である綏清天皇の妃に、葛城氏の子女を迎えることに成功したのである。

経済豪族・葛城氏を画遺跡にしたことで、神武天皇の「新ヤマト政権」は畿内から勢力を拡大する「手段」を得たことになるのである。

交通網を持つ葛城氏がいれば、九州平定も容易かっただろう。

神武天皇社から更に南に3キロ程南、国道24号線風の森峠の麓に「葛木御歳神社」(みとし)がある。

ちょうど峠へ向かう坂道が始まる地点を少し南東に入った集落の奥に、神社はある。

画像
           ↑葛木御歳神社(御所市、筆者撮影)


葛木御歳神社の主祀神は「御歳神」と言い、穀物・イネの神と言われる。

主祀神が「1柱」と言うのは珍しく、それだけ強い神格化が窺える。

創建は不明で、神社の由緒でも「神代まで遡る」としか書かれていない謎の神社なのである。

由緒自体もいくつか存在し、その起因ははっきりしない。

「御歳神」はスサノオの子・オオドシとカヨヒメの間に生まれた子であると言う。

そう、オオドシとはニギハヤヒのことであり、「ミトシ」はニギハヤヒの子と言う事になる。

先に書いたように紀記を照らし合わせると、ニギハヤヒには後継者として男子2人と女子1人の3人の子がいたことが分かる。

彼自身妃が何人いたか不明で、紀記では家臣の一人だった生駒の武将ナガスネヒコの妹と言う記述も見えるが不明である。

とにかく直接の子は3人いて、それが上記の3人であることは間違いなく、だからこそイワレヒコが後継者になったのである。

また「先代旧事本紀」には、「ミトシ」を「高照光媛」と伝えている。

これを事代主の妹と見られる「下照媛」と見る向きもあるが、ニギハヤヒの子で女子、となれば候補者はただ一人、神武天皇の妃・皇后(当時皇后と言う概念はなかったが)イスケ媛しかいない。

加えて「古語拾遺」では、土地の長である「大年」が地区の人に収穫のお祝いとして牛肉を振舞ったところ、稲が不作となった。

これはどうした事かと神託に窺うと、「御歳神」の祟りであると言う。

それを解くには白鳥・白猪・白馬を献上せよとのお告げがあり、従うと豊作になったと言う。

これは「殺牛祭祀」の一環ではないか、という見方があり、全国には牛肉を神様に奉じる習慣を持つ神社がある。

元々この習慣は大陸のものであり、当地が帰化・渡来人が深く関わる地域であったと考える研究者もいる。

私も賛成で、恐らくは葛城氏配下の渡来系移民集団のことであろう。

紀によれば襲津彦の時代、主に朝鮮半島から大量の移民が来たと記されている。

もっも紀では「戦争捕虜」として連れて来た、と書いているが、そもそも4世紀前後の戦役で日本は完全な勝利を収めていないので、戦火を逃れたい住民を募って移民させたのであろう。

彼らは日本になかった工芸などの技術を持った「職人集団」であり、それが葛城氏繁栄のきっかけであった。

彼らは美しい自然と気候、水が豊富で平和な日本を「新天地」と考え、喜んで移住し、日本人として生きて行くことを選んだ人たちである。

彼らは日本人に、持ち合せていた技術や知識を惜しみなく教え、日本の発展に尽くした人々であった。

彼らもまた日本の信仰である「神道」に参賀し、その哲学的思想に彼らの新しい思想を同化させたのかもしれない。

御歳神社の背後には小高い丘になっていて、地元では「御歳山」と呼んでいる。

古くからこの山自体が御神体とする「神奈備」であったと言う。

だとすれば、神社の参拝は「拝殿」であり、本来古代神道では拝殿を通して御神体の神奈備を拝するはずだが、御歳神社にはなぜか「本殿」が存在する。

もちろん現在の建物は近代に建てられたものだが、平安時代の記録では奈良時代に朝廷から「食封」が与えられ、本殿に祀ったと記録がある。

これはどういう事か?

画像
     ↑御歳山。画面左側に神社の参道が続いている(ウィキペディアより)


私は神奈備は後から言われたのであって、もともとは別の物が御歳山にあった故と考える。

とある地元の研究者によれば、御歳山は「墳墓」であって、禁足地にするため神奈備にしたとする。

だから神社には拝殿ではなく「本殿」が存在するのだ。

そうなると、なんとなく推測が見えてくるではないか。

「御歳神」が神武天皇皇后「イスケ媛」だとすれば、御歳山は彼女の「墳墓」だったのではあるまいか。

奈良時代、神武天皇の時代は既に「古代」である。

2〜3世紀とすれば、もう500年以上も前のことであり、皇室の始祖である神武天皇は半ば「伝説化」していたであろう。

御歳山がイスケ媛の墳墓である、と言う事も伝説になりつつあり、かといって始祖の皇后の墳墓をないがしろにするわけにもいかない。

ならば神奈備として禁足地にして「聖域化」することが、当時の皇室にとってまたとない話になったはずである。

2〜3世紀ころ、亡くなったイスケ媛を葬った墳墓は当然ながら「聖域」であり、シンボリックなものであっただろう。

何より「柏原宮」に程近く、標高の高い丘からは「新ヤマト政権」の奈良盆地も見渡せた。

正にイスケ媛は「見守る母」のような存在ではなかったか。

故に「五穀豊穣」の神に、神格化されたのである。

画像
     ↑葛木御歳神社の「本殿」(許可をもらっての撮影、ウィキペディアより)


新ヤマト政権の始祖となり、葛城氏と深い関係を築いた神武天皇とイスケ媛。

以後皇室は葛城氏のおかげで、全国を統一する機番を作ることになったのだ。

墳墓とそれを祀る神社を創建したのは、恐らく当時の葛城氏Hかその源流となった「鴨氏」であろう。

なお「大年神」は、摂社に祀られているが、これはオオドシ・ニギハヤヒの事だろう。

ミトシとオオドシ。もしかしてイスケ媛の別名もしくは幼名が「ミトシ」ではなかったか。

父の名を一部もらった可能性はあるだろう。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
古代史探偵A・葛木御歳神社の謎(7月6日 曇り時々雨 20℃) CRECHANのブログ 「風の道」/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる