CRECHANのブログ 「風の道」

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zoom RSS 飛行機ネタ・愛しき「ジーナ」フィアットG.91(5月11日 晴れ時々曇り 23℃)

<<   作成日時 : 2018/05/12 02:28   >>

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異常な肌寒さは、予報通り解消し、久し振りに日差しが戻った。

気温も上がり、爽やかな風もあって、いつの間にか新緑を携えた木々が、風を受けて気持ち良さそうに揺れていた。

予想ほど気温は上がらなかったが、少なくともこの数日のぐずつき加減は解消した。

ご近所では早朝から騒々しかった。

子供のいる家庭が多いのだが、洗濯物が溜まっていたに違いない。

この数日は外に干したくとも干せない日々が続いていたから、皆さん待ってましたとばかり朝一番で洗濯したのだろう。

湿気っぽい部屋の空気を入れ換え、掃除もしただろう。

窓を開け閉めする音、ベランダに出入りする気配があちこちから聞こえた。

一方私は昨夜遅く(と言うより朝に近い)から、持病とも言える肩こりが復活。

こちらも久し振りに痛くて眠れないほどだった。

肩こりなんて生易しい物ではなく、肩から首筋、背中にかけての恐らくは筋肉が激しく痛むのだ。

湿布などは気休め程度で、痛み止めを飲む以外手がない。

もう20年以上悩まされていて、一時期は筋肉弛緩剤を使っていた事もある。

最近はナリを潜めて、たまに湿布を貼る事ぐらいだったが、ここ一週間前から痛みが広がり、気になっていた。

それでも湿布を貼ると楽だったから良かったが、昨夜は違った。

横になった方が、筋肉に負担がかかるのか痛みが強く、とても眠れない。身体を起こすといくらか楽なのだが、そういう訳にもいかず、痛み止めを飲んでようやく浅い眠りについた。

痛み止めは即効性はあるのだが、持続性がなく、私の場合だいたい5〜6時間に効き目が切れて来る。

その間に神経の痛みが収まれば良いけれど、そうでない場合は効き目が切れて来るのと同時に、痛みが復活するから始末が悪い。

鎮痛剤は一日最大2回までしか服用出来ないから、タイミングを上手く図らなくてはならない。

幸い起きて身体を動かしている分には、あまり気にならないのが幸い。

筋肉の痙攣なのか、神経痛なのかもわからない。

だがストレスが痛みの原因の一つだと思うが、ここしばらくそれほど思い当たるフシがない。

生活苦、貧困は今に始まった事ではないし(笑)、母の死はストレスなんかではない。

人間関係は断絶しているようなものだし、強いて言えば、やはりここ数日の天候不順が原因に思える。

頭でストレスと感じなくとも、身体が大いに感じていたのかも知れない。

面白いもので、薬のおかげでようやくトロンと寝付くと、母の夢を見た。

母の夢はしょっちゅう見るのだけど、昨夜は母が私の肩を揉んでくれた。

生前の母は、私だけでなく人の肩揉みする事が大嫌い。

理由は簡単。気持ち良いものだから、やってもらう側は気が済むまで、いつまでもいいと言わないから。

だったら代わりに揉んであげると言うと、「あんたに揉まれたら、肩の骨が折れそうだからいらない。」

エラい言われようだが、母が私の肩揉みをするなんて、夢の中だけだろう。

夢を見ながら、私は何だか可笑しくて仕方なかった。

もしかしたら寝ている私の傍らで、本当に肩揉みをしてくれていたのかも知れないが。

霊ならば疲れる、と言う事はないだろうし(笑)。

もし万が一、将来私と暮らしてくれる人(要するに女性)が出てくるとしたら、肩揉みとマッサージは必須ですので、母のように嫌がらない人を募集します(笑)。



飛行機ネタ。

東西冷戦時代の初期、欧州ではNATOとワルシャワ条約機構が直接対峙する「最前線」であった。

同時に次なる戦争が火を噴くときは、核戦争になる確率はいっきに高まった。

しかしヨーロッパは決して広いとは言えず、全面核戦争になる直前は第二次大戦の様な局地戦争になることも、大いに考えられた。

大きな軍事同盟同士の戦いとなるため、当事国だけの戦争にはなりえない。

うっかり先端が開かれてしまえば、遠く離れていても同盟国は敵の「正当」な攻撃目標にされる。

例えば東西ドイツ(当時)の国境を越えて進撃したのが「ソ連軍」であったとしても、それは西ドイツとソ連だけの戦争にはならない。

同盟国が侵攻されれば、NATO軍は全ての加盟国に対しての「宣戦布告」と見なし、その相手はソ連1国ではなく、ワルシャワ条約軍に対しての物になる恐れをはらんでいた。

もしそうなれば、西ドイツに駐留していたアメリカ・イギリス軍はもちろん、加盟国である諸国は一斉にワルシャワ条約加盟国に対し、防衛と報復の攻撃を起こす事になる。

ソ連の独断だとしても、報復の対象は条約加盟国の東ドイツ(当時)はもちろん、ポーランドやチェコスロバキア(当時)も対象になる。

反対の立場でも同じであり、それがギリギリの「抑止力」になっていた。

特に50年から始まった朝鮮戦争では、表向き北朝鮮VS国連軍の戦いとなっていたが、実際には北朝鮮側に中国とソ連が「支援」と言う形で加わっており、特に空の戦いにおいては、北朝鮮空軍の最新鋭機「ミグ15」の殆どは、ソ連空軍のパイロットが操縦していた。

また国連軍も主体は米英軍であり、大戦中連合国としてナチス・ドイツ、日本と戦い勝利したかつての仲間同士は、この時既に事実上袂を分かちあい「敵対」していたのである。

大戦中は「敵の敵は味方」という観点から、利害が一致した米英ソだったが、政治的には43年の「ヤルタ会談」で既に対立の様相を見せていたのである。

独裁者スターリンが率いるソ連は、社会主義の建前を取っていても、中身はナチス・ドイツと変わらない「ファシズム国家」であると、米英は見ており、大戦後は世界を二分する事もほぼ確定的だったのである。

朝鮮戦争は、まさに米英ソの「代理戦争」であり、お互いが「新しい敵」であることを確認したに過ぎなかった。

NATO諸国は来るべき「冷戦」に、考えうる全てに備える事が「抑止力」となって、猛烈な軍事開発競争が幕開けた。

戦争において「制空権」の確保が勝敗のカギであることは、大戦を通じて証明済みであり、各国は新型機の開発にいそしむ事になる。

それが、60年代のヨーロッパであった。

米英は多数の駐留軍を大陸各国においていたが、もちろん各国の軍も国土防衛に努める必要があった。

航空機の製造・開発は一定の技術と資本が必要だが、この時代ヨーロッパで航空機の自主開発を出来る国は限られていた。

大戦後まで航空大国だったイギリスは、戦争による経済の疲弊が酷く、技術は持っていても開発どころか既存の軍を保持するのがやっとで、昨日書いたように超音速戦闘機「ライト二ング」を開発しただけで、その後の自主開発は今日まで断念する事になった。

NATO諸国にとって、唯一アメリカだけが頼りになっていた。

その他フランス・西ドイツ・イタリア・スペインが航空産業を持っていたが、西ドイツは敗戦国の代償として自主開発には制限が設けらており、スペインは政治混乱でイギリスより経済状態は悪く、途上国にランクダウンしていた。

何とか余力があるのはフランスだけで、イタリアもまたスペインほどではないにせよ国内の政治・経済は極めて不安定であった。

イタリアは大戦中、ドイツ・日本と同盟を組む「三国同盟」の一員だったが、極右のファシスト党が政権を握り、党首のムッソリーニが独裁者となって、領土拡大を目論む戦争を始めていた。

しかし国内での支配力は弱く、43年に連合軍が北アフリカからシチリアに上陸すると、ムッソリーニ率いる「ファシスト・イタリア」は分裂を起こし、イタリア軍自体が分裂し始めた。

特に経済格差の大きい北部と南部の対立は、軍の対立をも引き起こし、経済的にも優遇されていた北部と、経済的に恵まれない南部の内戦に近い状態となり、米英軍の本土上陸をやすやすと許してしまう。

南部イタリアの軍や政治家は即座に降伏し、すぐさま「ファシスト・イタリア」に反旗を翻す。

そして首都ローマが陥落し、「ファシスト・イタリア」は無条件降伏した。

直前に反対派に逮捕されたムッソリーニは、降伏前に処刑されていた。

それでもなおドイツの支援を受けるファシスト軍は残存し、北部を勢力下において闘い続けたが、ローマは新政府が樹立されており、新生イタリアは連合国の一員に鞍替えした。

だが全土を遅配するには至らず、それは米英軍に頼らざるを得ず、「戦勝国」の権利は得られなかった。

ただし連合国に「協力」したと言う事で、辛うじて戦敗国の補償は免れただけであった。

イタリアは早々に降伏した事と、連合軍の戦略爆撃が始まる前だったので、歴史遺産を含む国土の荒廃は最低限で済んだ。

その為戦中まで残っていた工業生産技術は、戦後もすぐに活動を開始できる状態にあった。

イタリアも第一次大戦中から航空機を作る航空先進国であり、大戦中には複数のメーカーが存在していた。

戦後はかなり整理されたものの、現在まで原型が保たれている企業もある。

「フィアット」と言えば、誰でも聞いたことがある自動車メーカー。

創業は1899年(明治32年)と、イタリアでもっとも古いメーカーの一つである。

同時に複数の部門を持つ総合コンツェルン的企業で、機械・重工業の総合メーカーでもある。

大戦までは自動車以外、戦車や装甲車と言った陸戦兵器はもちろん、艦船・航空機・鉄道など交通部門の殆どを牛耳る独占的巨大企業であった。

戦後各部門が他社と合併したり整理されて、現在のフィアットは自動車部門だけでアメリカのクライスラー系列になっているが、第二次大戦まではイタリアどころかヨーロッパ最大の工業メーカーであった。

航空機部門では第一次大戦後、アンサルド社などを吸収し、第二次大戦までに戦闘機や爆撃機などを生産していた。

戦後も航空機部門は残存し、50年代に入るとNATOから「軽戦闘機」の開発を持ちかけられる。

冷戦が始まり、NATOの戦略の一環としての計画である。

有事の際、東欧と国境を直接接する国々において、先に侵攻された場合、制空権の確保は後の事である。

先制攻撃を受ければ、例え一次的であれ制空圏はワルシャワ条約軍に握られる。

必要なのは制空圏奪回まで、敵を「阻止」することであり、主要な基地は攻撃もしくは占領されてしまう。

その時、とにかく航空機を退避させ、臨時の基地に移動し、そこから敵の阻止のために攻撃を仕掛ける。

臨時の基地とは、発見されにくい森林や山の中などで、滑走路は時には高速道路や草地である。

一次的にこうしたシェルターに身を隠し、ゲリラ戦法で敵の侵攻を喰い止めて、NATO軍本隊の到着を待つのだ。

些かネガティブな戦術だが、このような想定の準備も必要だった。

そうした任務をこなすには、小型で扱いやすく、複雑な機構は必要ない。

とにかく武器を持って未整備の臨時飛行場から飛び立ち、敵の侵攻を喰いとめれば良い。

要求されたスペックは、短い滑走路もしくは不整地でも離着陸が可能で、最低限の武装を持ち、機体はシンプルかつ頑丈であること。

レーダーや複雑な航法装置は載せず、全天候性も必要なしとされた。

開発にはフィアット社が選ばれ、50年代半ばに設計を開始。

56年に原型機が完成し、初飛行した。

これが「フィアットG.91」である。

非常に小型の機体で、外観はアメリカが40年代に開発し、朝鮮戦争で大活躍した「F-86Fセイバー」とそっくりだった。

特にきつい後退角の主翼と、尾翼の配置はウリ二つで、当初イタリア空軍も「コピーではないのか?」といぶかしんだと言う。

F-86Fと違うのは、尖った機首を持つ事だったが、F-86Fの後期型「F-86D」はレーダーを搭載した為機首が尖っており、G.91はF-86Dにますますそっくりだった。

だが機首のコーンにレーダーは積んでおらず、前生産型の少数機のコーンの中は空洞である。

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         ↑イタリア空軍のフィアットG.91R-1(イタリア空軍提供)


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          ↑ノースアメリカンF-86D(アメリカ空軍提供)


エンジンはイタリアで持っていなかったので、イギリス製の「ブリストル・オルフュース」ターボジェットを採用した。

空力学的にF-86を大いに参考したことは、フィアットは公に認めていて、当時の水準を考慮すれば似たような形になる事もある程度しかたないことであった。

F-86の「J47」エンジンに比べ、パワーが小さいので音速は出せず、最高速度は亜音速に留まっているが、要求から見れば充分だった。

飛行性能は素晴らしく、特に軽量のため運動性はF-86より遥かに優れていた。

すぐにイタリア空軍の要求により、空洞だった機首部分には偵察用のカメラを搭載できるように改修され「R-1」型として、正式に実戦配備された。

これによりG.91は軽攻撃機・戦闘機・戦術戦闘機として、ある程度の多目的機に成長した。

武装は機種に12.7ミリ機銃4門を固定武装としていたが、威力不足は歴然で、同機を採用した西ドイツ空軍は20ミリ機関砲に変更している。

レーダーはなく、完全な「昼間戦闘機」であり、空対空ミサイルの運用能力はない。

主翼には片側2か所ずつハードポイントがあり、増槽の他爆弾・ロケット弾ポッドを吊り下げる。

あくまで「軽攻撃機」のため、武器の搭載量は1〜2トン程度である。

だがシンプルな分扱いやすさは定評があり、輸出にも期待が寄せられた。

画像
         ↑西ドイツ空軍のG.91R-3(ウィキペディアより)


しかし同時期にアメリカのノースロップ社が開発した「F-5Aフリーダムファイター」があり、NATO諸国のみならず途上国にベストセラーだった。

レーダーもないシンプルな「昼間戦闘機」としては、大きさもG.91と同じカテゴリーだったが、F-5は超音速機で、武装も多く積むことができた。

価格も安く、NATOではオランダ・ノルウェー・スペイン・ベルギーなどが導入し、各国はライセンス生産もしていた。

亜音速機のG.91はその時点で魅力のない機体と見られてしまい、結局イタリアの他西ドイツとポルトガルが採用しただけで、中東や南米、アフリカ諸国にさえ売ることは出来なかった。

イタリア空軍は国産機と言う事もあって、気に行ったのか100機以上のG.91を導入し、空軍のアクロバットチーム「フェッチェ・トリコローリ」に採用した。

同隊のG.91は特別仕様として新造機が宛がわれ、機首のコーンは尖った形に成形、尾部にはスモークオイルの吹き出し口、胴体後部にスモークオイルタンクを増設し「PAN」型と呼ばれた。

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     ↑フィレッチェ・トリコローリのG.91PAN(ウィキペディアイタリア語版より)


「フィレッチェ・トリコローリ」では63年から82年シーズンまでの19年間、G.91PANを使用し、イタリア空軍とG.91自体の性能と技量を世界中に見せる事になる。

現在は同じく国産ジェット練習機の「マッキMB339」に変わっているが、G.91時代にイタリア空軍の技量の高さを証明したと言える。

専門家にもG.91の運動性の評価は高く、操縦もしやすい機体であった。

60年代前半にフィアットの航空機部門はアエロエール社と合併し、新たに「アエリタリア」となる。

66年には起死回生の意味を込め、新製となったアエリタリア社はG.91の改良版「G.91Y」を開発した。

G.91には機種転換訓練用の複座型「G.91T」があり、胴体が延長されていたが、その延長胴体を利用して開発したのが「G.91Y」である。

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         ↑複座型のG.91T(ウィキペディアより)


最も規格を利用しただけで、中身は完全新設計の機体である。

最大の改良点はエンジンで、小型で低出力だった「オルフュース」エンジンから、アメリカGE社製の「J85」ターボジェットに換装し、アフターバーナー付きで双発機とした。

また機種には相変わらずレーダーはなかったが、延長されたおかげで先端にレーザー測距装置をつける事が出来、限定的ながら全天候能力を持つ。

加えて簡易ながら火器管制装置も搭載され、主翼には「AIM-9サイドワインダー」を1発ずつ搭載でき、戦闘機能力を確保した。

機種の12.7ミリ機銃は2門の30ミリDEFA砲に換装され、攻撃能力は飛躍的に向上した。

イタリア産にこだわらず、レーザー測距装置・火器管制装置・射出座席などはアメリカ・カナダ・イギリス製をライセンス生産として、コストを抑えた。

何よりもJ85エンジン双発と言うのが最大の進化で、ライバル「F-5」が装備するエンジンでもある。

しかし既にNATO諸国はF-5は旧式化して、マッハ2級の「ロッキードF-104スターファイター」を採用しており、今更マッハ1.2程度のG.91Yに興味を示す空軍はどこもなかった。

西ドイツ空軍も、老朽化し始めたG.91の後継にはフランスと共同開発した「アルファジェット」に決定しており、もう一つのG.91導入国ポルトガル空軍も、後継機種はアルファジェットに決定しており、高性能化したはずの「G.91Y」はイタリア空軍が50機ほど導入しただけで、生産は打ち切られた。

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         ↑双発になったG.91Y(イタリア空軍提供)


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     ↑G.91Yの後部。双発のJ85エンジンと、形を変更した垂直尾翼の形が良く分かる(ウィキペディア英語版より)


G.91Yはパワー・機体とも若干の余裕があり、レーダーや電子装備の追加・換装は可能だったが、機体自体は50年代の設計であり、時代遅れと言うイメージは拭う事が出来なかった。

だが国土が狭く、急峻な山が多いイタリアでは、小回りのきく小型軽攻撃機は戦略上必要であった。

危険な深い谷を高速で低空飛行する事で、敵のレーダーから逃れつつ近付く任務には最適の機体であった。

皮肉にも要撃・防空戦闘機として、イタリア空軍も「F-104スターファイター」を導入する事になり、70年代になるとイギリス・ドイツと共同開発の多目的攻撃機「ト‐ネード」を採用し、純国産戦闘攻撃機のG.91は80年代後半に退役した。

だが局地防衛と言う戦術を捨てきれないイタリアは、ブラジルの大手航空機メーカー「エンブラエル」と共同開発の軽攻撃機「AMX」を生産する。

アエリタリアは「セレーニア」と合併して「アレーニア」になったが、AMXも100機ほどイタリア空軍に納入され、現役である。

地勢上の国防戦略と言うのも、開発のファクターになるべきもので、G.91はNATOスタンダードと言うより極めて「イタリアン」な機体であり、万人向きとは言えなかった。

あくまでイタリア的な感覚とセンスで作られており、セールスものんびりしたラテン気質が災いしたか、F-5やF-104と流行に乗り遅れてしまった。

しかしイタリアでは今でも「最初のの国産攻撃機」として、国民に良く知られた機体であると言う。

それは空軍のみならず「ジーナ」と言う愛称で呼ばれ、イタリア人なら誰でも知っている飛行機の一つだそうである。

決して能力が劣っていた訳ではなく、むしろ軽快で扱いやすく、馴染みやすい機体だっただけに、世界ではあまり知られず「地味」なものになっているのが、実に惜しい。

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     ↑タイガーの特別塗装を施したポルトガル空軍のG.91R-3(ウィキペディアより)



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          ↑離陸するG.91Y(イタリア空軍提供)



G.91R/G.91Yとも、NATO軍の合同演習に参加し、地上攻撃任務を行ったが、小型ですばしっこく、迎撃側は手を焼く存在だったと言う。

もう少し電子装備などが充実し、誘導兵器やミサイルを運用出来たなら、もう少し寿命は延びて、海外セールスも上手く行ったと思う。

G.91Yは正確には「アリタリア」製だが、元のG.91R1は「フィアット」製で、何より全世界に知られるメーカー。

自動車メーカーのイメージが強いが、以前はこうしたジェット機も作っていた・・と思うと、何となく愉快ではないか。

因みに自動車と航空機を作るメーカーは、日本の三菱重工、スウェーデンのサーブぐらいで意外と少ない。

自動車と航空機用エンジンと言うならば、イギリスのロールス・ロイスを始め、ドイツのBMW、ダイムラー・ベンツ、スウェーデンのボルボな度がある。

現在日本ではコンパクトカーの「フィアット500」をよく見かけるが、ある意味この「ジーナ」と同じ血が流れているのである。

私はフランス機ファンだが、イタリア機のファンでもある。

特にこの「ジーナ」は、なぜか好きである。

悲しい事に、資料や書籍は少なく、模型も30年以上前にイギリスのエアフィックス社と地元イタリアのエッシー社が出しただけ。G.91Yに至ってはマッチボックスが出した以外なく、いずれも現在は入手不可能。近年中国の新興メーカーが1/48スケールで出したが、非常に高価で、そこまで出せない程度でもあるのが悲しい。



ようやく異常な寒さは向け出したが、昼間の暖かさほど夜は暖かくはない。

それでも金曜日の夜と言う事で、街の人出は多く、泉中央のカフェバーでは外のテラス席で飲む人が増えた。

昨日まではとてもそんな気分になれなかっただろうが、今夜は良いだろう。

冷たい飲み物も、今夜は美味しく感じられるに違いない。

GW明けの長く苦しい1週間を乗り越え、一安心といったところか。

ああ、私も好きな人と冷たい飲み物と美味しい料理を食べながらお喋りしたいな。

横目で通り過ぎながら、いつもそう思う。

永遠に叶わぬ夢かも知れないが。

肩と背中の痛み、夜中まで出ていたが、少し収まった。

だが早朝になるとまた37.3℃の微熱が出て、頭がふらふらする。

何か病気かなあ、と思うが、それ以外特に体調の悪さは感じられない。

気温の上下差が肉体的ストレスだったかな、とは思うが。

食欲もあるし、よくわからない。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

肌寒さから一転、初夏らしい陽気になりましたが、体がついて行かない感じです。

君も体調管理には充分注意して下さい。

新緑が美しく見えそうです。

君もきっと見る事と思います。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



言問はぬ 木すら妹と兄 ありとふを ただ独子に あるが苦しき(万葉集巻六 1007 市原王)




☆今日のバス

2544号車 15年式いすゞエルガ(LV290N1) 富谷営業所

245号車 97年式三菱ふそうニューエアロスター(MP717P) 泉営業所(元名古屋市交通局)


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