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zoom RSS 飛行機ネタ・海賊と言う名のバッカニア(8月7日 雨時々止む 20℃)

<<   作成日時 : 2018/08/08 02:21   >>

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今日は二十四節気の「立秋」。

一瞬そうか、と思わせる肌寒い一日で、つい先日までの暑さがウソのよう。

雨と「ヤマセ」の為に気温が下がり、終日変化がなかった。

籠もり熱の冷めない我が家も、さすがに今日は涼しかった。

本降りではなく、霧雨ばかりで、それが空気を冷やしている。

七夕祭りは中日だが、さすがに見物にはちょっと「引き気味」になりそうな気温だ。

アーケード街だから見物には支障なさそうだけど、周囲の公園などでは出店やイベントがあり、この気温ではさぞかし客足は悪かろう。

何より暑さの中見物するから、冷たい飲み物やかき氷が欲しくなるのであって、これではその気は起きない。

台風が近づく事もあって、最終日の明日に挽回は期待薄。

「雨の七夕」と言うジンクスは、最悪のパターンで終わりそうだ。

せめて一週間ズレてくれたら…祭りの当事者の悔しさが、伝わって来そうである。

午後は一時的に雨が止んだ事もあって、見物客はそこそこ出たと言うが、歯切れの悪い七夕祭りだ。

商店街では、県外からの観光客を当て込んだ稼ぎ時。

飲食店も見物客を当て込んでいるはずで、今年は大きく的が外れてしまった。

機能の泉中央では、悪天候ながら浴衣姿の女の子たちの姿や家族連れを多く見かけたが、今日は殆ど目立たない。

ひょっとして浴衣姿の女の子たちの目的は、七夕ではなく別のと事にあったのかも。



俳優の津川雅彦さんが、4日に亡くなっていたことが分かったと言う。

この4月、45年連れ添った女優の朝丘雪路さんを失ったばかりで、僅か2カ月半で後を追われた。

享年78歳と言う事は、私の母と同い年であった。

あらゆる映画・テレビに出演された津川さんだが、近年はバラエティのトーク番組などにもよく出演されていた。

昨年私は偶然にも、津川さんが出演されたPVを見つけていた。

「いくたびの櫻」と言う歌のPVで、物語仕立てで津川さんが主役を演じられていた。

偶然にも若い時に奥さんとであったのが、1本の満開の桜の木の下。

以降結婚して、毎年夫婦でその桜を見るのが恒例だった。

奥さんは結婚当初から病弱で、それでもがんばって子育てを終え、老齢まで頑張ったが、ついに病床に伏して亡くなった。

そして今年も桜は見事な花を咲かせるが、どんな時でも欠かさず一緒に見て来た奥さんはいない。

歳を取って初めて、一人で見る桜。

でも奥さんがちゃんと傍で見てくれているようで、寂しいけれど今年もまた桜を見る・・・。

私は映画やテレビで涙を流すことは滅多にない。

だけどこの動画は、涙が止まらなかった。

そう、見たのは昨年の桜が咲く頃。

母が亡くなって間もない時で、夫婦と親子と関係性が違うけれど、私の事を言われているような気がしてならなかった。

同時に津川さんの様に、微笑んで奥さんを送り出し、再び出あうその日まで桜を見ていこう・・・。

とてもそんな気持ちにはなれなかったし、桜に罪はないのに深く恨んだ。

今年は近所の桜並木を見に行こう、と母と約束したばかりであり、桜に裏切られた様な気がしてならず、名所でもある並木道には一切近寄らなかった。

今年はそこまでの感情は落ち着いたけれど、やはり桜を直視することは出来なかった。

私のことはともかく、津川さんのこの動画は心を打つ。同時に役の様にはなれなかった。

朝丘雪路さんが亡くなった時には、体調を崩されていて、それでもメディアの前に出てコメントしていた。

朝丘さんは数年前から痴ほう症になっとり、津川さんが自宅で自ら介護していたと言う。

体調不良と、ショックが津川さんの体の力を大きく奪ったのかも知れない。

きっとあの世で再開し、たった3ヶ月半離れただけで済んだと喜んでいるかも知れないが、素晴らしい俳優さんだっただけに気の毒で、そして残念極まりない。

津川雅彦さんの御冥福を、心よりお祈りいたします。




飛行機ネタ。

イギリス人は発明好きで、特に機械に関しては今に繋がるたくさんの物が、イギリス発祥であることは多い。

それはイギリス人が長けている、と言うより、必要に迫られることが多かったとも言える。

近世イギリスは、世界中に植民地を持地「大英帝国」の名前をほしいままにした。

世界に広げた植民地から、当時ヨーロッパでは考えられなかった様々な物がイギリスに持ち込まれ、16〜19世紀には最も富を持つ国であった。

それは食糧出会ったり、資源であったり、文化も持ち込まれた。

彼らはそれをただ輸入するのではなく、新しい文化を創造する事を思い付いて発明が進んだのである。

鉄道にしても、人と物を一度に大量に、そして早く運べる手段として思い付いたのであり、蒸気機関と言う「動力」もまた然りである。

飛行機については、アメリカのライト兄弟が最初と言われるが、これは「動力付き」の彦行きの事で、人間が空を飛んだという点においては諸説がある。

一般的には19世紀に、ドイツの冒険家リリエンタールが無動力の「グライダー」を製作し、数分以上飛んだのが最初と言われるが、同時期にロシア帝国の科学者モジャイスキーが蒸気機関をつけた「飛行機」を製作し、飛行に成功したと主張している。

最もこれは「ジャンプ」しただけと言うのが真実の様で、空力的に重い蒸気機関で飛翔する事は難しく、1903年の「ライトフライヤー」が世界初の飛行機と言うタイトルホルダーになっている。

飛行機に関して、イギリスは一歩後れていた。

これは「大英帝国」時代から、同国が一大海運国家であったためで、稚拙で不安定な飛行機に彼らは興味を示さなかったのである。

しかしライト兄弟から僅か10年後、ヨーロッパで第一次大戦が始まると、これまでの戦争とは全く違う様相を見せたのである。

それは「機械」に頼る戦争、すなわち近代戦争への「革命」であった。

第一次大戦では「戦車」「毒ガス」そして「飛行機」が初めて戦争に使われ、それは莫大な犠牲を払う結果となったとともに、兵器の発達は国家主義の大きな転換点であった。

兵器を開発するだけではなく、大量生産出来ることが、今後の世界に於いての覇権のキーワードであったのである。

イギリスはすぐさま動いた。

飛行機が有効な国家戦略の道具になると予測して、大戦中に一気に開発と生産に転じ、戦争後半には「空中戦」「空襲」が当たり前になっていた。

飛行機は輸送手段より「兵器」が先に発展したのであるが、戦後イギリスは世界で初めて飛行機による「航路」を開設する。

今でいう「エアライン」であり、当初は郵便や荷物の輸送が主体だったが、やがて人間を運ぶ「旅客機」が登場する。

そう、エアラインはイギリスが「発明」したと言えるのだ。

元々機械産業の先進国だったので、飛行機大国になることはたやすく、イギリスは30年代には他に追随を許さない航空先進国になっていた。

国内には大小のメーカーが興り、来るべき新しい時代に向けて、次々とアイディアによる飛行機が考え出された。

その半分は失敗に終わるのだが、とにかくアイディアだけはドンドン出して新しい飛行機を作り続けていた。

39年に再び大戦が始まると、一時歩みを止める。

前の大戦から約30年の間に、軍用機は異常な程の発達を見せており、それは個別の性能ではなく「質より量」と言う、大量生産が発展の要になっていた。

第二次大戦はより高度な兵器開発の場となり、アメリカやソ連の様な大量生産出来る国が一歩前に出ることになる。

戦後冷戦時代に突入すると、イギリスの「飛行機先進国」の立場は、米ソに完全に逆転された。

戦勝国ではあったが、小さな島国のイギリスは6年間に費やした戦費は莫大であり、経済は殆ど破たんしていた。

戦時中でさえ、実際には戦費を調達できなくなっており、当初「不干渉政策」で参戦を拒んでいたアメリカを引きづり込むことで、兵器や物資を支援させたのであった。

それは戦後、西欧の覇権を海の向こうのアメリカに引き渡すと言う「密約」でもあった。

無尽蔵とも思える資源を持つアメリカとソ連が、戦後対立する事は戦時中からわかっており、小国イギリスがソ連に対抗する事は事実上不可能であった。

来るべき「新しい世界構図」は、唯一の社会主義国家のソ連に対抗できるのはアメリカしかなく、イギリスは「虎の威を借るキツネ」になるしかなかったのである。

その予想は見事に的中した。

50年に勃発した朝鮮戦争では、ソ連が北朝鮮を支援する事を認めたため、「国連軍」が出動し、米ソの対立が決定的になったのである。

日本が支配していた朝鮮半島は、ドイツと同じく米英ソが共同で「管理」していたが、背後には中国がいたこともあり、米ソは管理ではなく勝手に「傀儡」国家を成立され、半島は完全に分断されたのである。

朝鮮戦争ではイギリスの他「英連邦軍」として、オーストラリアやニュージーランドも参加し、イギリスは苦しい台所事情の中派兵したが、ますます経済は疲弊した。

朝鮮戦争後、イギリスは兵器開発の大幅縮小を余儀なくされ、政府は労働党と保守党が大きく対立し、政権が交代するたび軍事費は削減されるようになる。

同時に開発はどんどん先細りになり、60年代には機体の開発を一切中止。

アメリカ製を中心とした輸入に頼ることになる。

それでもエンジンや電子装備など、戦前から培われてきた技術は捨てることなく、最後のプライドとしてギリギリではあるが受け継がれてきたのが救いであった。

イギリスは大きな海軍力を持ち、戦後もアメリカに次ぐ規模を保有していたが、艦船は殆ど戦中の物を改装して使っており、新造船をつくる資金力はなくなっていた。

時代はジェット機時代を迎え、莫大な経費のかかる海軍に於いて空母を含む航空兵力は無駄であると言う見解が強くなり、海軍は艦船のみにするべきと言う意見に傾いていた。

60年代まで、イギリス海軍は複数の空母を保有していたが、以降老朽化で次々退役し、代替えはなかった。

それでも数隻の空母については、大幅な改修を施すことによって何とか保有を続けたものの、回復の鈍い経済状態に於いて、古い空母の改修と運用はどう見ても「税金の無駄遣い」であった。

そんな逆風の中、イギリス海軍は50年代後半に新しい攻撃機の開発をメーカーに提示した。

当時イギリス海軍には複数の国産機が運用されていたが、いずれも旧式化しており、何より超音速機は1機もなかった。

イギリスは大陸から離れた島国であり、北海から南下してくるソ連艦隊の脅威に直接晒される場所にあった。

ソ連海軍に空母はなかったが、その分核兵器を搭載する潜水艦や高速の「ミサイル巡洋艦」を複数保有しており、特に巡洋艦は脅威であった。

潜水艦も脅威には違いなかったが、自分の他にアメリカの哨戒機や潜水艦が多数いたため、ソ連潜水艦はむしろ容易に近づけなかった。

しかし巡洋艦であれば「演習航海」と称すると、公海上を堂々動ける権利を持っているのである。

潜水艦の巡航ミサイルは、潜航中に発射しなければならない。

構造上海上に出ているときは発射できないばかりか、潜航中に発見されれば例え平時でも「危険」と判断され、攻撃の口実を作らせることになる。

しかし巡洋艦ならば「演習」の権利があるので、せいぜい監視される程度で、航行を妨げられることはない。

だが「演習」と称して射程に接近され、突然攻撃に転じる可能性は充分ある。

それを防ぐには、情報分析と射程に近づかせない「阻止」が、イギリスには必須であった。

当時空母に搭載されている攻撃機は「スーパーマリン・シミター」だったが、40年代後半の設計で、いわゆる〔ジェット創世記〕の機体であった。

速度は遅く、亜音速にも届かないばかりか、レーダーは貧弱で全天候性はなく、兵器は爆弾やロケット弾と言った大戦中と変わらないものであった。

イギリス海軍は「低空での超音速」「全天候型」「大きな搭載量と航続力」「対艦ミサイルの運用」だできる機体を要求し、数社のアイディアから「ブラックバーン」社の「B.103」が採用された。

これが「バッカニア」である。

イギリスは現在に至るまで、航空機やエンジンには「名称」をつけることが決まっており、採用と同時にこの新型機は「バッカニア」とされたのである。

画像
     ↑イギリス海軍800SQ所属のバッカニアS.2B(ウィキペディア英語版より)

「バッカニア」とは16〜17世紀に、当時覇権を争っていたスペインに対して攻撃する「公認」の海賊集団のことである。

敵に気づかれることなく近づいて攻撃し、反撃の暇を与えず帰還する・・・正に海賊と同じ役目を持つのである。

バッカニアの原型機は58年に完成。初飛行した。

低空を飛ぶのが主体のため、機体は非常に頑丈につくられており、エンジンは双発とされた。

イギリス機の伝統でもある主翼の付け根に一体化するようにつけられたのはデ・ハビランド社が開発した「ジャイロン・ジュニア」ターボジェットエンジンだった。

元々「ジャイロン」エンジンは大型のターボジェットだったが、バッカニアの為に再設計して小型化したのが「ジュニア」である。

しかし大型の機体に対して「ジャイロン・ジュニア」は、非力であった。

アフターバーナーは燃料消費の関係からつけられないため、どうしても要求の性能を満たせなかった。

しかし期待自体は非常に優秀で、胴体は中央部が曲線でくびれた「エリアルール」を採用していた。

これは超音速飛行に適した形状で会ったが「ジャイロン・ジュニア」では、超音速どころか亜音速も出せなかった。

しかし新型機の需要は急務であり、飛行性能自体は良かったことから、見切り発車的にバッカニアの量産が決定され「バッカニアS.1」として62年から運用が開始された。

高速性を求めるため、エリアルールの他、武装は抵抗を減らすために「内蔵式」とし、胴体下部に回転式の爆弾倉が作られている。

これは扉が開くのではなく、半円筒上の取り付け板に爆弾を吊るし、くるっと回転させることで解放する。

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     ↑爆弾倉を見せる南アフリカ空軍のバッカニアS.50。搭載しているのはダミー弾(ウィキペディア英語版より)


主翼は戦略爆撃機「ヴィクター」と似た半月型の後退翼で、外側1/3が上方に折り畳むことができる。

これは小さなイギリス空母での運用に、必須の機構である。

乗員は2名で、後席には兵器および航法担当士官が座る。

「S.1」ではフェランティ社製の「ブルージャケット」レーダーが装備され、夜間および悪天候時の飛行が可能であった。

武装は爆弾・ロケット弾の他、B.61核爆弾、そして「グリーンチーズ」対艦ミサイル1発が搭載出来た。

しかし「S.1」は、どうしても「ジャイロン・ジュニア」の非力さが際立ち、空母での運用には大きな制限が付いて回った。

小型空母のカタパルトは、押し出す距離も力もアメリカ空母のそれより小さく、非力なバッカニアにはフル積載でも離艦は不可能であった。

また空中給油能力もないので、武装を軽くする以外手立てがなかったのである。

60年にブラックバーン社を買収した「ホーカー・シドレー」社は、コネのあるエンジンメーカー「ロールス・ロイス」の新型エンジンに換装する事を、海軍に提示。許可され早速改修型が作られた。

これが以降主力となる「S.2」である。

胴体に変化はないが、エンジンは新型の「ロールス・ロイス・スペイ101」ターボファンジェットに換装され、エア院定期とエンジンベイは一気に大型化されている。

「スペイ」は初の量産型軍用ターボファンジェットで、ファン流は強力な推力を生みだし60%も増加した。

画像
         ↑バッカニアS.1(ニューワーク博物館の保存機)

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     ↑正面から見たバッカニアS.2。S.1に比べ大型化されたインテイクが良く分かる(ウィキペディア英語版より)


しかし初期のターボファンは、高回転を得ることが出来ず、「S.2」でも超音速は不可能だった。

それでも「ジャイロン・ジュニア」と比べると天と地の差があり、武器と燃料搭載量が大幅に増えただけでなく、地上および海上すれすれと言う密度の濃い状態に於いて、亜音速飛行が可能になった。

海軍はこれで充分と見て、S.2の生産を許可し、既存の「S.1」も「S.2」に改造する事になった。

更に「S.2」ではレーダーが「ブルー・パロット」に変更され、70年代前半には能力を追加した改修型「S.2B」に変更されている。

「ブルー・パロット」レーダーもフェランティ社製で、限定的ではあるは海上の複数の目標を探知する「ルックダウン」機能を持ち、火器管制装置と連動して目標を最適の位置・最適の武器で攻撃出来るシステムを持つ。

また「S.2B」では機首に空中給油装置が取り付けられ、離艦時における重量制限は大幅に削減された。

主翼には「境界層整流装置」(BLC)が、イギリス機として初めて実用化された。

これは着陸時の低速に於いて、失速を防ぐ装置で、エンジンから圧縮空気をフラップ付近に導いて噴出させる装置。

これによりバッカニアは、不安定な空母への着艦速度が極めて遅く安定していた。

尖がった尾部はエアブレーキで、両側に開く様になっている。

画像
        ↑展開したエアブレーキ(ウィキペディア英語版より)


機体が大型の割に、空母運用に適した機構はまさに「発明」に当たり、のちのアメリカ艦載機も参考にしている程である。

バッカニアはS.2でようやく花は開いたに見えたが、運命は皮肉であった。

S.2が本格的に空母上で運用を開始した途端、当時の労働党政権は海軍の空母を全て廃止する事を決定してしまい、「空母はコマンド空母(軽空母)のみの保有」と明記した法案を強行採決してしまったのである。

つまりカタパルトを持ちいて固定翼機を運用する、通常型空母の保有を自ら禁じてしまったのである。

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     ↑空母イーグルに着艦するバッカニアS.2B(ウィキペディア英語版より)


それによって79年を持って、イギリス海軍は現用の空母を全て退役させることになり、ヘリコプターを除く艦載機は退役か空軍への移籍を余儀なくされるのである。

実は70年代にイギリス空軍も、超音速長距離侵攻攻撃機の導入を計画し、国産の「TSR-2」を開発していたが、予算不足で中止。代わりにアメリカの「F-111K」の導入が決定していたが、これも労働党政権によって「ドタキャン」されていた。

当時空軍は主力戦闘機として「ファントムFGR.2」を保有していたため、海軍の「ファントムFG.1」の引き取りはすぐにOKしたが、バッカニアには難色を示していた。

欲しいのは長距離大型攻撃機で、バッカニアはそれより小型であり、兵器の搭載量は少ない。

それよりもライバル関係にあった海軍機を、例え「たなぼた」でも手放しでもらうのは、プライドが許さずにいたのである。

しかし機材の充足は空軍にとっても急務であったこと、海軍から退役直前にバッカニアはイギリス本土からジブラルタルに無給油飛行のパフォーマンスを演じていた。

これは空軍が欲する長距離飛行能力に他ならず、プライドだけでは済まない問題であった。

結局バッカニアは全て空軍が引き取ることを同意し、新たな部隊編成が行われた。

パイロットは海軍からの移籍組みが数多くいたため、彼らを教官とすることで、新人パイロットの教育は驚くほど早かったと言う。

しかもバッカニアの素直な操縦性は、空軍のパイロットを驚愕させた。

一見不格好で鈍重に見えるバッカニアだったが、頑丈な機体は故障が少なく、空気の濃い低空でも風に影響されにくかった。

通常密度の濃い低空では、揺れや振動が生じるが、バッカニアは非常に安定しており、乗り心地は極めて良かったと言う。

特に低空を飛ぶ攻撃機では、前方が見えず、計器を睨む後席乗員は酔いやすいものだったが、バッカニアでは全く感じなかったという。

乗員は「まるでレールの上を走っているようだ」と比喩している。

80年代のバッカニアは、各種のセンサーポッドが胴体や主翼に取り付けられるようになり、爆弾倉も電子機器のスペースに改造された。

主翼には外翼に2か所、内翼に1か所のパイロンがありフランス製の対地ミサイル「マトラAS-30マーテル」、国産の対艦ミサイル「シーイーグル」を最大4発搭載し、増槽2本が標準形態となって、完全な「ミサイル攻撃機」に変化した。

空軍に移籍したバッカニアは、冷戦末期には西ドイツ駐留の最前線に配備され、ワルシャワ条約軍への阻止任務に従事した。

本国の部隊は主に北方のスコットランドに配備され、海軍時代と同じく北海を南下してくるソ連海軍ににらみを利かせていた。

空軍機はNATO合同演習では常連で、「侵攻軍」役で相手をかき回した。

地上僅か数メートルと言う高度を、亜音速で飛行するバッカニアは、防御側には非常に厄介な相手で、「ジャギュア」とともに最も嫌われた機種であったと言う。

高性能のアメリカ空軍のF-15やF-16、海軍のF-14でさえ振り切ってしまう。

高速だけではなく、とてもそうは見えないほど運動性が良くて、発見しにくく、追いつけなかったそうである。

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      ↑空軍に移籍したバッカニアS.2B(ウィキペディア英語版より)


80年代後半には老朽化して、機体は疲労で退役する物が増えていた。

バッカニアは最大12Gと言う重力をかけられる稀有な機体であり、演習や実戦で移管なく発揮していたのだが、さすがに金属疲労が酷く、改修にはコストもかかりすぎて来た。

既に後継機種である「ト‐ネード」が登場しており、空軍はバッカニアの退役を決意するが、91年に発生した「湾岸戦争」では、老兵バッカニア最後の「生き残り」の12機が参戦した。

いつしか愛着を持った空軍の粋な計らいであり、最後の花道を飾るのに相応しいことであった。

戦場のバッカニアは、他の機体と同じく「デザートピンク」に塗り替えられ、「トーネード」の補佐役として出撃した。

ト‐ネードが搭載する精密誘導爆弾を投下する際、バッカニアが目標にレーザーを照射して誘導する、と言う戦術である。

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        ↑湾岸戦争に参加したバッカニアS.2B(アメリカ空軍提供)


参加したバッカニアは全機が無事に任務を終え、損害なして本国へ帰還すると言う偉業を成し遂げたのであった。

その2年後、バッカニアは正式に退役した。

初飛行後、35年が経っていた。

画像
     ↑退役直前、僅かな期間に施された現用イギリス機の迷彩(ウィキペディア英語版より)


バッカニアの生産数は僅か150機程度で、海外では唯一南アフリカ共和国が12機、1飛行隊分を採用しただけである。

当時の南アフリカ共和国はアパルトヘイト政策で孤立しており、同時に周辺諸国と紛争していたこともあって、同空軍のバッカニア「S.50」の情報はほとんど伝わっていない。

輸入後イギリスは制裁措置を下したので、部品供給が途絶え、数年で飛行可能な機体はなくなったと言う。

しかしアンゴラ紛争などでは、攻撃機として大きな活躍をしており、最も実戦経験を積んだバッカニアでもあった。


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       ↑南アフリカ空軍のバッカニアS.50(ウィキペディア英語版より)


バッカニアはカッコイイのか不格好なのか、個人で大きく分かれる機体だ。

しかし仮に不格好だとしても、その特化したデザインは見事なまでに性能を引き出しており、イギリス海軍・空軍とも、戦後最も愛された機体であった。

ファンとしても、そのごついとも言えるスタイルはスマートではないけれど、頼もしく見えるのである。

「海賊」と言うと、どこかダーティな響きがあるが、祖国防衛に大きな役割を果たした「武勲機」であったのである。




夜は更に肌寒い。雨は降っていなかったが、とても半袖ではいられない程に感じる。

街でも、さすがに長袖を羽織る人が多かったが、若い女性には袖の短い半袖で頑張る人も。

時期的に帰省して来た人もいるようで、気温の低さに驚いたことだろう。

明後日には台風が近づく予定で、動向が気になるところだ。

明日の七夕最終日、少しは賑やかで終わると良いのだが。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

急に涼しくなって、体調を崩していませんか?

明日は少し暑くなりそうですが、それでも肌寒いと思います。

薄着はしない方が良いかも知れません。

気温差が大きくなりそうですので、体調管理には気をつけて下さい。

君にって七夕で、願いが叶いますように。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




遠長く 仕へむものと 思へりし 君いまさねば 心神もなし(万葉集巻三 457 大伴宿禰家持)



☆今日のバス

715号車 18年式いすゞエルガ(LV290N2) 泉営業所


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